「地上の楽園」は籠城戦には不向き
信長は岐阜城を天下統一の拠点とし、軍事拠点としてだけでなく、大名や文化人をもてなす外交拠点として整備した。金箔瓦を使った建物や滝を備えた池泉庭園がある山麓の館は、ルイス・フロイスが「地上の楽園のようであった」と記しているほどだ。
天正4(1576)年、信長は安土城に居城を移す。以降は、嫡子・織田信忠を岐阜城主とし、織田家の家督及び美濃・尾張の2カ国を譲った。しかし、この城には致命的な弱点があった。山頂部は痩せ尾根を切り開いた構造で、平坦面が少ない。
さらに、岩石の堅い岩盤のため井戸を掘っても水は出ず、雨水を貯めるしかなかった。狭い曲輪に加えて水の確保が難しいため、戦国時代末期に増加した大人数による長期籠城戦には、どうしても不向きだったのである。信長が攻略したときがすでに四度目の落城で、信長の死後も三度ほど城を落とされることになる。
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