「地上の楽園」は籠城戦には不向き

信長は岐阜城を天下統一の拠点とし、軍事拠点としてだけでなく、大名や文化人をもてなす外交拠点として整備した。金箔きんぱく瓦を使った建物や滝を備えた池泉ちせん庭園がある山麓さんろくの館は、ルイス・フロイスが「地上の楽園のようであった」と記しているほどだ。

天正てんしょう4(1576)年、信長は安土城に居城を移す。以降は、嫡子ちゃくし・織田信忠のぶただを岐阜城主とし、織田家の家督及び美濃・尾張の2カ国を譲った。しかし、この城には致命的な弱点があった。山頂部は痩せ尾根を切り開いた構造で、平坦面が少ない。

さらに、岩石の堅い岩盤のため井戸を掘っても水は出ず、雨水を貯めるしかなかった。狭い曲輪くるわに加えて水の確保が難しいため、戦国時代末期に増加した大人数による長期籠城ろうじょう戦には、どうしても不向きだったのである。信長が攻略したときがすでに四度目の落城で、信長の死後も三度ほど城を落とされることになる。

では、岐阜城の軍事的価値はどこにあったのか。

岐阜城
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戦うためではなく見せることに価値がある

それは要害そのものよりも、濃尾のうび平野を一望でき、長良川ながらがわを管制できる点にあった。信長時代、岐阜城は戦いのための城ではなく、基本的に城主の居住空間であり、威厳や権威を見せる城だったと言われている。

真山知幸『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)
真山知幸『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)

天正10(1582)年、本能寺の変で信長と嫡男の信忠が横死すると、織田家の家督は信忠の遺児・三法師さんぼうしに継承される。豊臣秀吉から一字をもらって織田秀信ひでのぶとなると、岐阜城主として13万石を領することになる。


信長の死後も実に20年近くにもわたって、岐阜城は織田家の本城であり続けた。

慶長けいちょう5(1600)年、関ヶ原の戦いの前哨戦ぜんしょうせんとして岐阜城の戦いが勃発。織田秀信は石田三成いしだみつなりから「西軍に参陣すれば尾張美濃の2カ国を与える」という条件を提示され、織田家復興を考慮して西軍につくことを決めた。