清秀の首を洗ったという首洗池

清秀も右近も、地元は同じ摂津(現在の大阪府北部)の武将。共に各地を転戦していた仲間だったはずなのだが……。

清秀はその場にとどまり奮戦するものの、堪えきれずに討死。大岩山砦には、本丸にあたるとされる場所に清秀の墓があり、尾根道を南へ進んだ先の谷間には、清秀の首を洗ったという伝承がある首洗池が残る。

大岩山砦の長大な横堀
撮影=今泉慎一(風来堂)
大岩山砦の長大な横堀
中川清秀の墓
撮影=今泉慎一(風来堂)
中川清秀の墓
首洗池
撮影=今泉慎一(風来堂)
首洗池。地元民たちが清秀の遺体を隠す際、ここで首を洗ったという

総大将・秀吉が不在の中、緒戦は完全に勝家方が優勢。秀吉方はこのまま押し切られるのもやむなし、という展開だった。

次々と崩壊してゆく秀吉勢

高山右近の撤退、中川清秀の討死。圧倒的に押されまくり、劣勢の自軍の状況に「もはやこれまで」と感じたのか。その近くの重要拠点を任されていた武将が、ある決断をする。賤ヶ岳砦を任されていた桑山重晴だ。鎌倉幕府御家人の子孫であり、秀吉や丹羽長秀の配下に入り出世してきた武将で、当時既に60歳前後だった。

両軍の最前線となった余呉湖は、西・東・南の三方をU字型に尾根が囲んでおり、東と南に秀吉方が布陣していた。東尾根の岩崎山砦、大岩山砦は既に陥落。残る南尾根の賤ヶ岳砦が落ちてしまえば、秀吉方の前線は完全に崩れてしまう。

賤ヶ岳砦から北の眺望
撮影=今泉慎一(風来堂)
賤ヶ岳砦から北の眺望。右手の尾根上に岩崎山砦、大岩山砦があった

にもかかわらず、だ。重晴はなんと、あっさり白旗をあげてしまうのだ。さらなる標的として賤ヶ岳砦をうかがう盛政に対して、戦わずして自ら降伏を申し出てしまう。

ただ、それではあまりにも不甲斐ないと思ったのだろうか。一説によると、盛政に対して「一晩だけ空鉄砲を撃ってくれ」「そうしたら翌日に山を降りる」と申し出たとか。実際、重晴が撤退したのは、翌日の4月20日。敵のいる余呉湖とは反対側、南の琵琶湖方面へと引き上げていったという(なお、撤退を決意したが、砦を放棄はしていなかったという見方もある)。

ところが、この「一晩の差」が、結果的に戦いの流れを大きく変えてしまうことになる。