いくつかの偶然による形勢逆転

琵琶湖畔で、重晴は秀吉方の援軍としてやってきた丹羽長秀の軍勢2000と出会う。長秀は、考えを改めて戦線復帰するよう重晴を説得する。

賤ヶ岳砦からの眺望
撮影=今泉慎一(風来堂)
賤ヶ岳砦から南西の眺望。右奥が琵琶湖

同日、前日の大岩山砦陥落の報が、大垣城の秀吉のもとにも届く。秀吉は大垣まで進軍したものの、大雨による揖斐川いびがわの増水に阻まれ、勝家方についた信孝の岐阜城まで近づけずにいた。災い転じて福となす。今なら、岐阜城に背を向けて賤ヶ岳へと向かっても、信孝からの追っ手は追いつけない。

こうして始まった「美濃大返し」。沿道に炊き出しや松明を用意させ、日没後まで13里(約52km)を約5時間で踏破するスピード進軍。北近江は元々、秀吉の領地だったエリア。地域について知悉ちしつしていたのも功を奏したのだろう。

賤ヶ岳砦から南東の眺望
撮影=今泉慎一(風来堂)
賤ヶ岳砦から南東の眺望。左奥のひときわ高い山が伊吹山。その向こうから秀吉の軍勢が手前側へと向かってきた

長秀と重晴のもとにも、総大将の秀吉がこちらへ向かっていることは、日中のどこかでは伝わっていたはずだ。重晴もこうなっては前言を翻すしかない。長秀とともに盛政勢へ攻めかかり、いったん放棄した賤ヶ岳砦を再び確保した。

一度は逃げた重晴のその後

これでお膳立ては整った形に。翌日未明には、秀吉率いる大軍による大反撃が始まり、流れは完全に逆転。盛政は奮闘するも敗れ、捕縛、処刑された。前田利家が戦線離脱するなど勝家勢は総崩れとなり、“勝負あり”。

秀吉が陣を置いたとされる“猿が馬場”
撮影=今泉慎一(風来堂)
秀吉が陣を置いたとされる“猿が馬場”。岩崎山砦、大岩山砦と同じ余呉湖の東側に伸びる尾根上にある
“猿が馬場”から余呉湖のある西方面
撮影=今泉慎一(風来堂)
“猿が馬場”から余呉湖のある西方面。湖畔との標高差は100m以上。現在は木々に覆われているが、当時は眺望が開けていたのだろう