真逆の行動に出た2人の武将
勝家勢、秀吉勢ともに、北近江の余呉湖(琵琶湖の北にある)とその周辺に着陣。その後はしばらく睨み合いが続いた後、同年4月、戦局に動きが見え始める。秀吉が降伏させたはずの信孝が、秀吉を裏切り、ふたたび岐阜城で挙兵。改めて信孝を討つため、秀吉は美濃へ向かい、17日に大垣城(岐阜県大垣市)に着陣している。
これに好機を見出した勝家勢は19日、秀吉のいない秀吉陣に対して攻撃を仕掛ける。勝家の甥の佐久間盛政が先陣を切り、秀吉方の中川清秀が守る大岩山砦に突撃。戦局が大きく変わってゆく。
盛政は行市山砦(福井県敦賀市)から南下し、余呉湖の西岸から南側を通って、東岸の大岩山砦(図表1②滋賀県長浜市余呉町川並)へ。途中、秀吉方の桑山重晴がいる賤ヶ岳砦(図表1①滋賀県長浜市木之本町大音)をスルーして大岩山砦に向かっている。当時、賤ヶ岳砦が未完成であったことから、それよりも戦力のある中川清秀の大岩山砦を陥落させよう、という思惑だったのだろうか。
秀吉軍の高山右近は戦線離脱
大岩山砦から峰続きの岩崎山砦(図表1③滋賀県長浜市余呉町下余呉)には、やはり秀吉方の高山右近がいた。盛政の猛攻に対し、右近は早々に戦線離脱してしまう。たとえ着陣していても、戦意は武将それぞれ異なる。直臣ではなく、「あくまで味方している他家」の場合は尚更。大勢が集まる大規模な合戦では特に、味方は多いだけではダメなのだ。




