集団の権利より個人の利益が“現実的”

次に弱者とはどうあるべきかという点では、一般にリベラル派は、とくにマルクス主義の伝統に親和的な見方をしてきたように思われる。弱者とは搾取されるばかりの存在であり、したがって連帯し、運動し、集団として権利を主張しなければならないとする見方だ。

こうした見方は、しかし「ダメな人」を力づけるものではない。そこではまず弱者が、もっぱら搾り取られる側の存在としてのみ規定されているからだ。また、そもそも「横並び」が苦手な「ダメな人」たちに連帯するよう説いても、あまり現実的ではないだろう。

一方で彼の議論では、逆に各自が稼ぎ取る側の存在になるよう勧めてくれ、そのためのいろいろなやり方を教えてくれる。だとすれば、集団としての権利などよりも個人としての利益のために立ち上がるほうが、はるかにやる気も出るし、現実的だということになる。

こうしたことから「ダメな人」は、そしてそのオピニオンリーダーとしての彼は、リベラル派の見方を拒否することになる。その「弱者観」は彼らを救済するものではなく、力づけるものでもないからだ。

ホームレスの男性に小銭を渡す手
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リベラル派の弱者=「偽の弱者」?

しかしリベラル派は自らの見方にこだわり、その「弱者リスト」の構成員にばかり福祉を分配しようとする。一方で「ダメな人」は分配の対象にされないばかりか、その原資を拠出するための徴収の対象にされてしまう。彼らの目にはそう映っているのではないだろうか。

そのため彼らは、そうした分配の仕方に異議を申し立てるとともに、その根底にある分配の原理、つまり福祉国家というシステムそのものに疑義を呈する。その結果、「大きな政府」を否定し、「小さな政府」を望む立場、すなわちネオリベラリズムを支持することになる。こうした考え方が、「ダメな人のためのネオリベラリズム」を支える思想の一部となっているのだろう。

そこではリベラリズムが、彼らにとっての「弱者の論理」としてほとんど機能していないことがわかるだろう。それどころかそれは、特定の「弱者の論理」を押し付けてくるという意味でむしろ「強者の論理」なのではないかと、彼らの目には映っているのではないだろうか。

しかもそこで考えられている弱者、つまりリベラル派の「弱者リスト」の構成員は、そうした「強者の論理」に守られている以上、もはや「真の弱者」ではなく「偽の弱者」なのではないかと、やはり彼らの目には映じるのだろう。というのも彼ら自身が「真の弱者」なのだから。

こうした見立てに基づいて彼らは、「強者」としてのリベラル派と、「偽の弱者」としてのマイノリティに強く反発することになる。そうすることが「真の弱者」としての彼らの階級闘争となるからだ。