なぜ「日本社会がオワコン化しても大丈夫」と言えるのか
こうした安直な思い込みが広く受け入れられてしまうのは、「いつまでも変われない日本」への苛立ちと諦めが、とくに若い世代の間に広がっているからだろう。「自分だけはいつでも変われる」と思い込むことの中にしか希望を見出せないほど、彼らの展望は閉ざされているのではないだろうか。
ここであらためて考えてみよう。「日本の将来は暗い」にもかかわらずなぜひろゆきは、「あなたの未来は明るい」と言えるのだろうか。通常の考え方では日本の未来が暗ければ、そこに住む人々の未来も暗くなるはずだ。しかし彼はそう考えない。
彼によればこれまでの日本は、工場のラインに見られるような「横並び」の体制のもとで、「みんなでトクせざるをえない」という構造を大事にしてきた。
しかし昨今ではとくに産業に見られるように、「ひとりで稼ぎ」「ひとりで利益を受け取る」というビジネスモデルが増えているため、「ほかの人にも分配する必要がなく」なった。その結果、「みんなのことを気にせず、自分だけがトクする」ことが可能になったという。
だからこそ「日本社会が「オワコン化」しても大丈夫」だと彼は断じる。「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」なのだから。
「ダメな人」に向けられるひろゆきの目線
ここに見られるのは、いわゆるネオリベラリズム(新自由主義)、もしくはリバタリアニズム(自由至上主義)に特有の考え方だと言えるだろう。公的なものを信任せず、自己責任に基づく市場競争を通じて自己利益の最大化のみを追求しようとする立場だ。
そもそも彼は成功した起業家であり、さらにマスクやベゾスなど、桁外れの大富豪の名をしばしば挙げていることからも窺われるように、彼自身がネオリベラルな考え方の持ち主だとしても、それはとくに不思議なことではない。
では彼は典型的なネオリベラルなのだろうか。実はそうではないだろう。その議論には、むしろそこからはみ出るようなところが多く見られるからだ。
一般にネオリベラリズムとは「弱肉強食の論理」だとされる。とりわけ業界ではいわゆるネットワーク経済の法則により、“winner-take-all”すなわち「勝者総取り」の原理が働き、強者はどこまでも強くなっていく。
そうした世界でネオリベラルな論者であろうとすれば、その視線は強者に向けられるのが普通だろう。しかし彼の議論はむしろ弱者、それも彼なりの見方に基づく弱者としての、いわば「ダメな人」に向けられることが多い。

