なぜひろゆきはリベラル派を嫌うのか
こうした彼の見方は、今日のネオリベラリズムを捉え直し、「ダメな人」のために再定義しようとするものだと見ることもできるだろう。それは「弱肉強食の論理」を推し進めるものでありながら、一方で「弱者の論理」を活かすものでもあるという見方だ。
今日、ネオリベラリズムの強力な論理の中に否応なく巻き込まれ、それに適応せざるをえずに汲々としている人々は、それを「強者の論理」から「弱者の論理」へとこうして優しく転倒してくれる彼の議論、いわば「優しいネオリベ」という考え方に、慰めや励ましを感じ取っているのではないだろうか。
ではそれは、なぜ「ダメな人のためのネオリベラリズム」であり、「リベラリズム」ではないのだろうか。本来はむしろリベラリズムこそが「弱者の論理」となるべきものなのではないか。それなのにひろゆきは、そしてその支持者はリベラル派を嫌い、さまざまな局面でその立場に反対している。それはなぜなのだろうか。
その背景にあるのは、とくに「弱者観」の違いという問題だろう。弱者とは誰なのか、そしてどうあるべきかという見方に関わる問題だ。それぞれについて考えてみよう。
リベラル派と異なるひろゆきの“弱者観”
まず弱者とは誰なのかという点では、一般にリベラル派は、とくに2つの立場に沿った見方をしてきたと考えられる。
その1つは従来の福祉国家論の立場であり、そこでは社会保障や公的扶助の主たる対象として、高齢者、障害者、失業者などが弱者だと考えられている。もう1つは近年のアイデンティティ・ポリティクスの立場であり、そこではとりわけジェンダーとエスニシティに関わるマイノリティとして、女性、LGBTQ、在日外国人などが弱者だと考えられている。
加えてとくに日本の場合には、戦後民主主義の立場から、さまざまなかたちの戦争被害者がそこに含められることになった。
これらの存在、すなわち高齢者、障害者、失業者、女性、LGBTQ、在日外国人、戦争被害者などが、いわばリベラル派の「弱者リスト」の構成員となっていると言えるだろうが、一方で彼が問題にしているような「ダメな人」は、そこにはほとんど含まれていない。「コミュ障」「ひきこもり」「うつ病の人」などだ。
そうした人たちは、リベラル派のプログラムでは救済されることがない。そのためリベラル派の言うことを聞いても意味はないと思われているのだろう。

