火炎瓶もプラカードも使わないが…

もちろんすべて合法だ。単に、制度が提示したルールのなかで、自分の負担が最も小さくなる場所へ移動しているだけだ。ご存じのとおり日本の税・社会保険制度は金融資産よりも給与所得を捕捉しやすく、働いて稼ぐ人から負担を集める構造となっている。ならば、給与所得を増やさず、生活費も増やさず、行政上の所得区分でも低い側にとどまればよいというわけだ。真面目に働く給与所得者から税金や保険料をぶんどってきた国家に対する、きわめて合法的なシステムハック、あるいは意趣返しである。

しかもこの静かな抵抗は一人分の税収を減らすだけでは終わらないところが恐ろしい。フルスペックの労働力を供給しない。住宅を買わない。大きな消費をしない。結婚せず、次世代の労働力も再生産しない。若者が社会に差し出すはずだった労働、税、保険料、消費、出生をまとめて引き揚げる。火炎瓶もプラカードも使わないが、高齢者中心の高福祉社会にとっては、こちらのほうがはるかに効く。それをいま、大小の差こそあれ、何万人、何十万人もの若者が目指しているのである。

日本人通勤者
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「若者が働き子育てをするだろう」という前提の崩壊

ここから始まるのは、高齢者中心社会と低燃費化した若者の我慢比べである。

高齢者中心社会は、若者が文句を言いながらもなんだかんだで働き、納税し、子どもを産み、次の支え手を供給し続けることを前提にしている。一方の若者は、狭い部屋と少ない消費と限定された人間関係のなかでも、それなりに楽しく暮らせるようになった。どちらの辛抱が先に限界を迎えるのか。人手不足とインフレと社会保障費の膨張を考えれば、社会の側が先に音を上げる可能性は決して低くない。

とくに人手不足は、この我慢比べをより厳しくする。働く若者が減れば、物流、外食、介護、建設、公共交通といった生活を支えるサービスの価格は上がり、質や供給量は落ちる。資産と健康な身体を持つ若者は、必要なら働く時間を増やしてインフレに対応できる。年金や給付を主な収入源とする人は、そう簡単にはいかない。若者の退出が進むほど、高齢者を守るための仕組みそのものが高齢者の暮らしを圧迫するという、皮肉な循環が始まる。