低期待、低リスク、低燃費

例を挙げているときりがないからこの辺にしておくが、若者たちはこうした発想の転換によって「苦しさ」を感じにくいよう認知的に適応しているのである。さしずめ「防衛的認知」とでもよぶべきか。

もちろん、こうした発想の転換それ自体は悪いことではない。手に入らないものを数えて一生不幸になるより、手の届く範囲で暮らしのなかの楽しみを見つけたほうがよいに決まっている。

だが問題は、この「防衛的認知」が個人個人の処世術を超えて一世代の時代精神になりつつあることだ。低期待、低リスク、低燃費。大きく望まないから大きく失望もしない。社会から何かを勝ち取ろうとするのではなく、社会に差し出すものを少なくすることで身を守る。そういう生き方を、大小の差こそあれ同時に大勢が実践しようとしている。ミクロの最適戦略が、マクロでも最善の結果をもたらすとはかぎらない。

「声を上げる」よりも「退出」

社会になんらかの不満を抱えた人間が社会に対して取りうる行動には、大きく分けて「声を上げる」と「退出する」がある。

かつての若者は前者を選んだ。デモをしたり、組合をつくったりして、社会や政治に訴えかけていった。いまの若者は、その回路に期待していない。要求して奪い返すより、最初から参加しない。賃金を上げろと叫ぶより、必要なカネを減らす。住宅を安くしろと運動するより、実家から出ない。社会を変えるのではなく、社会が自分から取れるものを減らす。これは直截的な抗議行動よりも見えにくいが、はるかに止めにくい。

吹き出しを掲げる人
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なぜ若者は「退出」を目指すようになったのか。若者の心が急に小さくなったからではない。そうではなくて、この国の民主主義が老いたからだ。日本では65歳以上が人口の29.3%を占め、現役世代2人で高齢者1人を支える構図になっている。社会保障給付費のうち高齢者関係給付費は6割を超える。寿命が延び、高齢者が有権者の大きな塊になれば、政治が年金、医療、介護、既得権、現状維持を最優先するのは、善悪以前に選挙の算数として自然なことになる。