日本軍人が信じた靖国神社の「物語」

靖国神社は、「戦死した軍人の肉体が滅びても、魂は九段の靖国神社へと向かい、そこで戦友と再会できる」という宗教的な物語を、日本軍人に信じさせていました。この物語に疑いを差し挟むことは、当時の日本社会では許されず、また軍人自身も「死の恐怖」から逃れるために、この物語を自発的に受け入れていたようにも見えます。

靖国神社の入口
写真=iStock.com/TkKurikawa
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部下に「体当たり自殺攻撃」を命じた上官や司令官が、それによってその部下を死なせても罪悪感を感じず、罪の意識を軽減できたのも、「肉体は滅んでも魂は靖国に向かう」という物語が存在したからでした。軍人の死を「嘆きや悲しみの対象」ではなく「至高の栄誉」と顕彰する靖国神社がなければ、特攻という戦法は成立し得ませんでした。

軍人が戦場で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なさず、むしろ「喜ぶべきこと」と捉える、多くの兵士を余計に死なせた遠因ともなった異様な「空気」は、1937年7月に日中戦争が始まった直後から、日本社会に広がっていました。

8月2日付大阪朝日新聞朝刊には、戦死した日本軍人を遺族が讃える記事が掲載されましたが、紙面に並んでいたのは、次のような言葉でした。

「“戦死は男子の本懐”健気に語る老ゆる母」
「“よく死んだ”戦死を褒める両親」
「よく死んでくれました、家門の名誉これに過ぎるものはありません」

「これで私たちも大いに肩身が広い」

8月5日付の同紙朝刊13面でも、「戦死の報にも毅然 天晴れ! 殉国の覚悟」という見出しで、次のような遺族の談話が、紙面の約3分の2を埋めていました。

「よくやってくれました。私は明治三十八年兵でちょうど日露戦役の済んだあとで、惜しくも従軍出来なかったですが、こんど息子が天晴れ戦死をとげてくれまして、一家の名誉これにすぎるものはありません」

「よくやってくれました。手紙がくるたびに、どうか潔くお国のために働いてくれればよいがと念じていましたが、これで私たちも大いに肩身が広いというものです」

「お役に立ってくれて、一門の名誉だと喜んでいます。白木の箱に入って凱旋せよと激励してやりましたが、それを実現してくれた」

「四日朝、戦死の電報を受け取りました。主人を早く亡くして娘二人はありますが、専造(戦死した一等兵)は私にとってただ一人の息子ですが、立派にお国に御奉公したのですから満足しています」

「お国のため立派に死んでくれたことを嬉しいと思います。二十八日、元気で活動しているから安心して下さいとの便りが来ましたが、これが最後の手紙となりました。千人針を送っておきましたが、着かなかったかもしれません」