満州事変を起こしたが、日中戦争には反対
【大木】石原莞爾は日米開戦時に独ソ和平工作をやれと言っていました。独ソ戦をやめさせれば、東部戦線につぎこまれているドイツの戦力が米英に向かうから、日本にとってはありがたいと考えていたようです。
【保阪】良い悪いは別として、石原莞爾には一貫したところがあります。彼がタクトを振った満洲事変から一貫したものがある。
『満蒙問題私見』(1931年)という文書では、将来の日米決戦、すなわち欧米文化と皇統文明の最終決戦の時のために、満洲を兵站地域として確保しておくのだと書いています。
だから石原の頭の中では、満洲事変は彼の「世界最終戦」勝利のための一手段だったのです。あっちで右こっちで左と、グツグツ沸いている鍋を搔き回しに行くのではなく、行き着くところを見定めて着々と手を打とうとしていました。
【大木】ただ、皮肉なことに、満洲事変がうまくいったのを見て、石原の後輩たちはこの手口を使って功績を上げようとばかりに、どんどん大陸に突っ込んでいきます。ついには、盧溝橋事件で日中戦争に突入してしまった。
石原の計画では、まだその段階ではない。戦機も軍備も整っていないから「いまは止めろ」と、日中戦争の拡大阻止に努めたけれども、もう止められなかったわけです。
「張本人なのに、なぜ裁かない」
【保阪】日中戦争で石原が現場を抑えようとするのは、持久戦になるのが目に見えていたからです。満洲事変と日中戦争では、石原の頭の中では、事実としての戦争のレベル、起こすべき段階がまったく違う。
戦後、東京裁判の証人になって、「満洲事変を起こした張本人はオレなのに、なぜ裁こうとしないのかわからない」、「日米戦争のきっかけを作った最大の戦犯はペリー提督だ」など、切れ味鋭い証言を残して、日本の軍人の中でひときわ恰好よく書かれることが多かった。そのため、石原は「あんな時でもアメリカに言いたいことを言った男」「真に明晰な戦略家」として人気が高い。
しかし、軍人として実際どうなのかを冷静に考えてみると、自分勝手な歴史観、戦争観に突き動かされて暴走した中堅幹部でしかなく、組織的にはまったく評価できない人物という評もありますね。
また、敵味方双方の寝首を搔いた満洲事変という謀略はうまくやったものの、他の軍の任務では大きな成果があった人物でもない。東條英機に楯突いていたけれども追い落とせたわけでもなく、かえって自分の方が左遷されています。
現在の戦史では石原莞爾を名将とする声もあるようですが、彼の功罪はまだ充分に整理されていないようです。





