明暗を分けたのは「勢い」の差
馬場氏は、「1」が素案、「2」が推敲だったのではないかと推理したうえで、「13日昼に信孝を迎え、その晩に山崎に着陣」では、申の刻の開戦には間に合わない、すなわち遅参したとの新説をたてた。
しかし遅参というのは、やや誇張があるのではないだろうか。
実際の戦場と、秀吉がいた富田の間は12km。そもそも12日に秀吉が富田に着陣した時点で、両陣営が鉄砲を撃ち合うなど小競り合いしていたことは、以前から確認されている。そうこうしている内に13日夕刻、前線が本格的に戦端を開いてしまい、その戦闘によって勝敗の帰趨が決し、光秀は後方の勝竜寺城に退却したが、そこからも逃亡して討たれた――新説はそうした戦況を、秀吉の「遅参」という強い言葉に置き換えてしまっただけに思える。
綿密な計画なしに謀叛に走り、味方になってほしいと声をかけた有力武将にことごとく断られた光秀。一方、同じく主君の死という突然の出来事に対峙しながらも、知恵を絞って大返しと軍勢の増強に成功した秀吉。
山崎の戦いはその両者の政治力・動員力の差によって勢いに差が生じ、短時間で雌雄を決したと見るのが妥当に思える。
参考図書
・藤田達生『証言 本能寺の変 史料で読む戦国史』(八木書店、2010年)
・渡邊大門『羽柴秀長と豊臣政権』(ちくま新書、2025年)
・渡邊大門『論争 本能寺の変』(星海社新書、2026年)
・渡邊大門『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』(法律文化社、2024年)
・熱田公著、播磨学研究所編『播磨戦国史 群雄たちの興亡』(神戸新聞総合出版センター)
・『戦後史研究』第91号(2016年、戦国史研究会)


