人望の裏にあった、秀吉を敵に回せない理由
恒興・清秀・右近といった有力武将が、軒並み秀吉と行動を共にした理由は何だったのか? それは秀吉が三木合戦で別所長治を滅ぼす前後から、播磨の復興に注力していたことと関連しているように思う。
秀吉は戦火から逃れていた百姓たちを盛んに呼び戻し、また諸役(夫役など労働)免除や年貢軽減などを行っている。三木城の陥落は「三木の干殺し」という、餓死者が続出する悲惨な兵糧攻めを用いたため、その悪評を覆す狙いがあったと考えられる。
要するに「戦後のそれぞれの城下への手当ての良さ」(『播磨戦国史 群雄たちの興亡』)が巧みで、大衆に理解ある新しい統治者という印象を植えつけようとしていたフシがある。摂津の隣国の播磨でそうした緻密な戦略を用いる秀吉が、恒興・清秀・右近には有望な男に見えたのかもしれない。
加えて重要なのは播磨と但馬の国境にある生野銀山だ。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」5月31日放送回でも、竹中半兵衛が「どうしても押さえておきたい場所」として挙げていた鉱山である。天正8(1580)年頃、信長は同地に代官を置いてはいたものの実行支配していたのは秀吉で、羽柴の領地として認められていたという説がある。
信長が死んだら、銀山は完全に秀吉のものだ。
潤沢な資金力を持つ秀吉と敵対することは得策ではない――恒興ら武将がそう踏んだのも、あながち否定できないのではなかろうか。
令和に生まれた、山崎の戦い「秀吉遅参説」
最後に山崎の戦いに関する新説に触れておきたい。
去る3月、日本中近世史研究の馬場隆弘氏が『戦国史研究』(戦国史研究会)に「山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉」という論考を発表し、注目を集めた。
骨子は合戦の火蓋が切られた天正10年6月13日申の刻(午後4時頃)、秀吉はまだ摂津・富田にいて(前述6月12日の項を参照)、戦闘に間に合わなかったというのである。
馬場氏によると合戦の4カ月後に書いたと思しき、似通った書状の案文が二つ存在するという。
1.12日に富田で1泊し、13日の昼に織田信孝(信長三男)を迎え、14日に池田恒興と同道して山崎へ行き、清秀と右近の先陣争いを制した。
2.12日に富田で恒興との先陣争いを制し、かつ山崎の陣取り(布陣)を決定。富田で1泊し、13日昼に信孝を迎え、その晩に山崎に着陣した。

