秀吉が味方に取り入れた2人の武将

秀吉はキーパーソンとなりそうな武将たちに、大返しの途上でせっせと書状を出して味方に取り込んだ。前述6月4〜5日の項に書いた『梅林寺文書』とは、摂津・茨木城主の中川清秀なかがわきよひでに宛てた書状が菩提寺である梅林寺に残っていたため、こう呼ばれている。

摂津の国衆だった清秀は荒木村重に仕えていたが、村重が信長に反旗を翻したときに織田方に付いて茨木城主の地位を安堵されていた。

秀吉は清秀宛て書状に、信長とその嫡男・信忠は本能寺から逃れ、近江で生きていると、偽情報を書いた。「信長が生きている」という話を清秀が鵜のみにしたかはわからない。だが国衆は強大な二つの勢力の狭間で、「機を見るに敏」だ。どちらに付けば生き残れるか、先を読む。

清秀は光秀ではなく、秀吉を選ぶ。光秀が大した計画もなく謀叛に及んだことを見越し、協力する者は少ないと踏んだのかもしれない。清秀は約2500~3000の兵を率い、山崎の戦いの先鋒を務める。摂津衆は決戦の地と目していた山崎への進路上にいたから、頼もしかった。

もう一人のキーパーソン、高山右近たかやまうこんも秀吉になびいた。清秀と同じく荒木村重を裏切って織田に与した武将である。本能寺の変の頃は高槻城主だった。

この年の3月まで、織田軍の甲州征伐(対武田勝頼の戦い)に参陣しており(『信長公記』)、清秀と歩調を合わせるかのように秀吉に付き、山崎の戦いで先鋒となった。

仮に清秀と右近が光秀に与していたら、大返しの障害になっただろう。

大返しを支えたもう一人の立役者

もう一人、重要な人物がいた。池田恒興である。

池田恒興の肖像画(模写、部分)、鳥取県立博物館所蔵
池田恒興の肖像画(模写、部分)、鳥取県立博物館所蔵(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

当時は伊丹城主。伊丹城は有岡城ともいい、荒木村重の居城だったが、村重没落後に恒興が治めていた。秀吉が尼崎に到着すると、中川清秀・高山右近らと共に合流し、山崎の戦いで右翼を担った。

また本能寺の変の前年の天正9(1581)年、恒興は兵庫城(神戸市兵庫区中之島)を築城したという。兵庫城には御座所があったと見られている。御座所とは貴人の宿泊施設で、ここでの貴人はむろん信長を指す。

秀吉は備中高松城を落とすにあたって同地に信長を迎える準備をしていたといわれるが、その旅程でこの御座所を使おうとしていたのかもしれない。そしてこの御座所が、大返しの際の休憩施設などに活用されたのではないだろうか。確証はないが、秀吉と恒興が連携していた可能性を示唆していると思える。