使者は洛中の騒乱に紛れ備中へ

実際、『夜久文書』のルートだと京から備中高松まで約155km。一方、西上する道は西国街道やその他にもあり、そちらを使えば約110km。緊急であるにもかかわらず、わざわざ約45kmも迂回する必要があるのか、確かに疑問は残る。

藤田氏は、西国街道や他の道は光秀が封鎖し、秀吉の使者を西へ向かわせないようにしていたのではないか(だから『夜久文書』ルートが有効だった)というが、渡邊氏は本能寺の変に計画性はなく、突発的な要素が強かったと指摘し、光秀に街道封鎖するような余裕があったとは考えづらいと述べている。

公卿の山科言継やましなときつぐの日記『言経卿記ときつぐきょうき』天正10年6月3日条(本能寺の変の翌日)には、「洛中騒動不斜」(京の市中の騒ぎは尋常ではなかった)とある。秀吉の使者は騒乱のどさくさに紛れて首尾よく京を脱し、最短ルートを駆けて備中に向かったと考えるのが妥当ではないだろうか。

秀吉のもとに報告が届いたのは、6月3日(もしくは4日)だった(『浅野家文書』)。

『本能寺焼討之図』/障子から顔を覗かせている人物(右)が信長。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『本能寺焼討之図』/障子から顔を覗かせている人物(右)が信長。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

「中国大返し」は着実なものだった

備中高松で信長の死を知った秀吉が京へ向けて引き返した件を「中国大返し」という。『太閤記』では6月6日に備中高松を発し、8日に姫路に到着したとある。4カ月後の10月10日付羽柴秀吉書状(写)は備中発を6月7日、一昼夜(約24時間)で姫路着とある。どちらにしても、約2万といわれた軍勢(諸説あり)が高松ー姫路間を、驚異的なスピードで行軍したことになる。

そのせいか過去の大河ドラマでは、羽柴軍はみんな走っている。とにかく走る。泥だらけで走り、街道沿いに準備されたにぎり飯を頬張る。

だが、一次史料に基づくと大返しの日程およびルートは決して驚異的とはいえず、実に合理的だったことがわかっている。以下、前述の渡邊大門氏の書籍から抜粋すると……。

・6月4日/備中高松城から野殿のどの(岡山県北区) 距離約8km(『梅林寺文書』)
・6月5日/野殿から沼城(同県東区) 距離約14km(『梅林寺文書』)
・6月6日/沼城から姫路城(兵庫県姫路市) 距離約55km(『松井家譜』所収文書)

6日の行軍はかなり無理を強いたと考えられるが、大軍勢が1日で55kmを踏破したわけではないだろう。秀吉はじめ騎馬した部隊が先に到着したという意味であり「諸卒相揃わず」(『惟任退治記』)、すなわち遅れた兵もいた。

・6月9日/姫路城から明石城(兵庫県明石市) 距離約36km(『松井家譜』所収文書)
・6月10日/明石城から神戸を経て11日朝に尼崎(兵庫県尼崎市)に着陣 距離約45km(滋賀県立安土城考古博物館所蔵文書)
・6 月12日/尼崎から富田とんだ(大阪府高槻市)に着陣 距離約24km(『金井文書』)

中国大返しは、このように着実かつスピーディーに、東へ東へと軍を進めて行った。この間、姫路城到着時と同じように遅れた将兵が各地で出て、山崎の戦いに臨んだ際には、軍勢は1万余になっていた。