使者は洛中の騒乱に紛れ備中へ

実際、『夜久文書』のルートだと京から備中高松まで約155km。一方、西上する道は西国街道やその他にもあり、そちらを使えば約110km。緊急であるにもかかわらず、わざわざ約45kmも迂回する必要があるのか、確かに疑問は残る。

藤田氏は、西国街道や他の道は光秀が封鎖し、秀吉の使者を西へ向かわせないようにしていたのではないか(だから『夜久文書』ルートが有効だった)というが、渡邊氏は本能寺の変に計画性はなく、突発的な要素が強かったと指摘し、光秀に街道封鎖するような余裕があったとは考えづらいと述べている。

公卿の山科言継やましなときつぐの日記『言経卿記ときつぐきょうき』天正10年6月3日条(本能寺の変の翌日)には、「洛中騒動不斜」(京の市中の騒ぎは尋常ではなかった)とある。秀吉の使者は騒乱のどさくさに紛れて首尾よく京を脱し、最短ルートを駆けて備中に向かったと考えるのが妥当ではないだろうか。