NHK「豊臣兄弟!」では、ついに本能寺の変が描かれた。信長の死に際には、かつて対立した弟・信勝の“幻影”があらわれるという演出があった。信長を最期まで苦しめたのは、何だったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、最新論文などから史実に迫る――。

“弟の亡霊”は創作だが、本質を突いている

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第27回(7月12日放送)は、本能寺の変。ついに本能寺が炎上した。

「大日本名将鑑」より「織田右大臣平信長」、木版画
「大日本名将鑑」より「織田右大臣平信長」、木版画(写真=ロサンゼルス郡立美術館/PD-LACMA/Wikimedia Commons

さて、大河ドラマも含め、様々な創作が加えられてきた本能寺の変。今回は、信長が死の間際に走馬灯のように弟・信勝(信行)の亡霊を見る、という場面が描かれた。信長の死に際など誰も見ていないのだから、これは完全な創作である。

しかし、この創作は案外、信長という人間の本質を言い当てているのかもしれない。信長が死の間際に本当に向き合うべきだったのは、弟の亡霊などではなく、自分がこの家に敷いた一つのルールだったからだ。

それは「疑わしい者は、証拠の有無にかかわらず消す」というもの。

悲惨なことに、このルールは信勝一代では終わらなかった。息子・信澄にまで、二代にわたって適用されることになったのである。

ここで勘違いしてはならないのが、信長は寛大な人物だということだ。裏切り者であっても、実際に旗を挙げて負ければ案外甘い。その代表格が松永久秀だろう。1572年の最初の謀反では、多聞山城の明け渡しであっさり赦免。5年後の二度目の謀反でも、信長はいきなり攻めてはいない。まず側近を送って理由を尋ねさせ、最後まで「名物茶釜さえ渡せば命は助ける」と交渉の窓口を開け続けている。久秀がそれを拒んで自害したのは、信長が非情だったからではなく、久秀が意地を張り通しただけの話だ。

“白黒つけない”弟の信勝は許容できないタイプ

荒木村重も同様である。1578年に有岡城で謀反を起こすと、信長は明智光秀・松井友閑らを説得に送り、失敗すると羽柴秀吉を加えてもう一度、それも決裂すると黒田官兵衛まで送り込んでいる。数カ月にわたって、翻意させようと使者を送り続けたのだ。

要するに、実際に兵を挙げた相手には、信長は驚くほど気長に交渉のドアを開けておく。負けた敵、旗幟を鮮明にした敵には、むしろ甘いとさえ言える。

ところが、疑わしいヤツに対してはガラリと態度を変える。

久秀にせよ村重にせよ、少なくとも「何をしたか」ははっきりしている。だから信長も、交渉なり条件闘争なり、次の一手を組み立てられる。しかし、そうではない場合に信長の態度は苛烈である。

旗幟を鮮明にしない、白黒つけない、煮え切らない……考えを読めない状態のまま、疑いだけがくすぶり続ける、そんな相手を信長は容認できない性格なのだ。

弟の信勝は、まさにそんな信長が許容できなかったタイプの典型例といえる。