“兄弟対立の原因”は、父・信秀がまいた
そもそも、信長と信勝の後継者争いには、どういう背景があったのか。これまでの歴史では『信長公記』などの記述をもとに以下のように語られてきた。1556年の稲生の戦いで、信長は柴田勝家や林秀貞を味方に付けた信勝と激突し、劣勢にもかかわらず勝利した。敗れた信勝は母・土田御前の取りなしで、勝家や林秀貞ともども赦免されたが、信勝は再び謀反を計画。これに対して、信長は仮病を装って清洲城に信勝を誘い、1557年に河尻秀隆らの手により誅殺した、ということになっている。
この対立は「うつけ者の兄」対「まっとうな弟」の権力欲のぶつかり合いといった物語的な捉え方をされてきた。しかし、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」(『愛知県史研究』15号)は、こうしたステレオタイプな認識の再検討を求めている。ここで村岡は、兄弟間の対立の原因は父である信秀によってまかれていたとしている。
というのも、信秀の死により信長が後継者となった時、状況は最悪であった。勢力拡大により美濃に侵攻を図っていた信秀は、1547年に加納口の戦いで斎藤道三に敗北。信長と濃姫の婚儀を成立させることで和睦し、北方の脅威を抑える必要を迫られることになった。
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