“兄弟対立の原因”は、父・信秀がまいた

そもそも、信長と信勝の後継者争いには、どういう背景があったのか。これまでの歴史では『信長公記』などの記述をもとに以下のように語られてきた。1556年の稲生の戦いで、信長は柴田勝家や林秀貞を味方に付けた信勝と激突し、劣勢にもかかわらず勝利した。敗れた信勝は母・土田御前の取りなしで、勝家や林秀貞ともども赦免されたが、信勝は再び謀反を計画。これに対して、信長は仮病を装って清洲城に信勝を誘い、1557年に河尻秀隆らの手により誅殺した、ということになっている。

この対立は「うつけ者の兄」対「まっとうな弟」の権力欲のぶつかり合いといった物語的な捉え方をされてきた。しかし、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」(『愛知県史研究』15号)は、こうしたステレオタイプな認識の再検討を求めている。ここで村岡は、兄弟間の対立の原因は父である信秀によってまかれていたとしている。

というのも、信秀の死により信長が後継者となった時、状況は最悪であった。勢力拡大により美濃に侵攻を図っていた信秀は、1547年に加納口の戦いで斎藤道三に敗北。信長と濃姫の婚儀を成立させることで和睦し、北方の脅威を抑える必要を迫られることになった。

愛知県名古屋市・萬松寺所蔵の織田信秀木像
愛知県名古屋市・萬松寺所蔵の織田信秀木像(写真=『郷土偉人展覧会図録』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「威勢衰退への転換点」負けたまま亡くなった父

さらに、三河方面では、1548年に三河国小豆坂で今川義元と戦うが、決定的な勝利を収めることはできなかった。村岡は、この結果を次のように記している。

これは対今川戦略の観点からすれば敗北に等しい軍事上の失敗であり、尾張における彼の威勢衰退への転換点となった。

勢いづいた義元は、翌1549年に三河国の安祥城(安城城)への攻勢を強化し、陥落。これによって、信秀の勢力は三河国からことごとく失われ、今川勢は尾張と三河の国境周辺にまで進出するようになった。こうした信秀の敗勢によってもっとも勢いづいたのは、対立する一族の面々であった。『信長公記』によれば、1549年1月には犬山織田氏と楽田織田氏が攻め込んできたため、末盛城から信秀が駆けつけて数十人を討ち取って敗走させたと記している。

この後「信長公記」によれば、信秀は42歳で病死。信長が、髪はちゃせんの奇妙な出で立ちで現れ、抹香を仏前に投げつけて帰ってしまった一方、信勝は麻の正装を着こなして、誰から見ても立派な姿をしていた……という、有名な事蹟が記されている。