「父の居城・重臣を丸ごと弟が継承した」と見えた
とはいえ、信秀は、一時は勢いを誇ったものの、国内外をぐちゃぐちゃにしたまま死んでしまったわけだから信長の怒りもわからなくはない。
村岡は、この記述を史実だとして、単なる素行の悪さの表れではなく感情の爆発だと捉えている。というのも、この時点で信長はかなりの劣勢であったからだ。
信長の奇行のすぐ後、『信長公記』にはこう記されている。
末盛の城勘十郎公へまいり、柴田権六・佐久間次右衛門、此外歴々相添へ御譲りなり。
葬儀を終えた信長は末盛城の信勝のもとへ出向き、柴田権六(勝家)・佐久間次右衛門をはじめとする重臣のほとんどを、信勝に「御譲り」している。家督の実質とは、結局のところ所領と家臣団だ。信秀の重臣のうち、信長のもとに残ったのは那古野城主就任時に付けられた四家老のみ、それ以外は軒並み信勝側についた。
つまり葬儀の場で信長の目の前に広がっていたのは、「父の居城と、父配下の重臣のほとんどを、弟が丸ごと継承している」という現実だった。信長・信勝で協力して家を継げ、と父は言い残したつもりだったのかもしれないが、実態としては「信勝を後継とせよ」と遺言したのとほぼ同じ結果になっていたわけである。信長が仏前で切れたのも無理はない。
枠組みから離脱、権力基盤をゼロから作り直す
しかし、ここからの信長の動きが凡人と違う。実力で家督を奪い返す、あるいは信勝の下に甘んじる、というわかりやすい二択を、信長は取らなかった。代わりに彼が選んだのは、父が築き父の死によって解体しかけていた「一族・一派」という枠組みそのものから離脱し、まったく別の権力基盤をゼロから作り直すという道である。かつて信秀自身が、一介の弾正忠家として尾張で成り上がっていったのと同じことを、今度は息子が繰り返そうとしたわけだ。
事実、信秀の死の直前から、信長は「御被官あらため」、つまり自分専属の家臣団を選別・再編する作業をすでに進めていた。葬儀の時点では信勝方についていたはずの佐久間大学が、後の稲生の戦いでは信長方として登場しているのも、葬儀直後の信長・信勝の会見で引き抜かれた結果だろうと村岡は見る。
さらに信長は、父の死からわずか一月余りで今川との停戦を独断で破り、鳴海の山口氏を攻撃するという、一族・一派の総意を完全に無視した単独行動に出る。この振る舞いは、舅・斎藤道三や大叔父・織田玄蕃允秀敏との間で「織田の家中がまとまっていない」と嘆かれるほど、外部からも危うく映っていた。

