信澄を生かしたのは、“正統性”を傷つけないため
つまり、信長は、家督という共同財産の分配では実質的に負けていた。それでも負けを負けと認めず、勝負の土俵そのものを変えることで巻き返しを図る、極めて冒険主義的な行動を取っていたのである。危なっかしいというより、ほかに方法がなかった。
この後、信長は舅である道三の全面支援獲得、守山の織田信光との連携(後に滅ぼす)という形で勢力を拡大。1556年の稲生の戦いへと到ることになる。
結局、信長の権力掌握は、家臣も唖然とするような冒険的な主戦論による勢力の回復、正統な後継者であった信勝の打倒、さらに守護代である清洲織田氏を滅ぼすという極めて血なまぐさく泥臭いものであった。こうした経験則ゆえに、裏切り者は使えるならば許容するが、家中の統一を阻害する存在だけは許さないという不文律を確立させていったのだろう。
こうした信長の権力掌握経緯をみると、信勝の遺児である信澄を殺さず、その後も重用した理由が見えてくる。信秀が明確な後継者を指名していなかった以上、信長と信勝のどちらも正統な後継者といえる状態であった。ゆえに信勝を殺害して排除したのは、家臣団が動揺しかねない冒険であった。
まだ何の罪もない幼児(信澄)まで手にかければ、「正統な血筋を根絶やしにした簒奪者」という評価が固定化しかねない。信勝の正統性がある程度は世間に認識されていたからこそ、その血を絶やすことは信長自身の正統性にも傷をつけかねないために、ためらったとみることもできるだろう。
城も家臣団もなかったから、安心して重用できた
その上で信澄は、信勝とは違い便利な血族であった。信澄には、独自の城もなければ、独自の家臣団もなかった。つまり、信長が自ら選び抜いた家臣団と同じく、まったく白紙の状態から権力構造に組み込むことができる血族だった。この疑う要素のなさゆえに、信長は安心して信澄を重用することができた、と考えられる。
信澄のその後の実像は、誉田航平「織田七右兵衛尉信重の基礎的研究」(『駒澤史学』第101号、2023年)が一次史料から復元している。発給文書4通はすべて「織田七右兵衛尉信重」の署名で、「津田信澄」の呼び名は一次史料上の裏付けを欠く。近江高島郡を任され大溝城主となり、一門衆として『信長公記』でも5番目に名を連ねた。妻は光秀の娘。謀反人の遺児どころか、政権中枢の実力者だったのである。
しかし本能寺の変後、信澄がどのような疑いをかけられ、どう最期を迎えたかは前回記事で詳述した通りである。
(参考記事:NHK大河では信長に愛され、秀吉が絶賛した好青年だが…本能寺の直後に噂のせいで味方に討たれた織田家の武将)
結局、信長に疑われる部分がないから重用された男は、その死後に疑うべき部分が噴き出して殺されたのである。なんとも皮肉な話だ。

