明智光秀が本能寺の変を起こした理由について近年有力視されているのが、四国の戦国大名との関係が光秀を決断に追い込んだという説だ。一体どんな人物だったのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが、その素顔を読み解く――。

信長に約束を反故にされた男

近年、明智光秀が本能寺の変(天正10/1582年)を起こした動機について、「四国政策説」が有力な見解の一つとされている。この説の中心にいるのが四国の戦国大名・長宗我部ちょうそかべ元親もとちかだ。現在放送中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」にも、6月28日放送回に登場した。今後のキーパーソンの一人だろう。

「太平記英勇伝七十二 長曽我部宮内少輔元親」
「太平記英勇伝七十二 長曽我部宮内少輔元親」(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

四国政策説について簡単に紹介しよう。

長宗我部元親の一代記『元親記』によると、織田信長は元親に対し、「四国は元親の手柄次第で切り取って良い」とする朱印状を出していた。武力で制圧した分だけ元親の領土として認めると、信長が約束したというのだ。天正3(1575)年頃のことだったらしい。そのうえ、元親の長男に「信」の偏諱へんきを与え「信親のぶちか」と名乗るのを許すなど、良好な関係にあった。

ところが天正10(1582)年初め頃、信長は突然この約束を反故にし、讃岐(香川県)と阿波(徳島県)を取り上げ、元親には土佐(高知県)一国のみを与えると通告するのである。

元親が驚いて抵抗の意を示すと、信長は伊勢の豪族・神戸かんべ氏の養子となっていた三男の神戸信孝を総大将、甥の津田信澄を副将とした四国攻略軍を編成し、力づくで讃岐と阿波を奪い、元親が逆らうなら攻撃も辞さない姿勢を鮮明にした。

面子を潰された光秀の、静かな決意

この信長の変心は、明智光秀の面子をつぶし、かつ織田家臣団における彼の立場を危うくするものだった。なぜなら、信長と元親の間を取り次ぎ、何かと腐心していたのが光秀その人だったからである。

方針転換は光秀を窮地に追い詰め、将来に不安を抱かせた。居場所をなくすかもしれない、そう懸念した光秀が、信長を討つと決心したのではないか――これが四国政策説である。

また天正10(1582)5月21日付けで、元親が光秀の家臣・斎藤さいとう利三としみつ(利三に関して詳しくは後述)に宛てた書状が残っている(『石谷家文書』)。それによると元親は一宮いちのみや城、夷山えびすやま城など阿波にある主要な城5つからは(信長の命令通り)退城するが、海部かいふ城など2つの城は土佐の玄関口にあたるので所有を認めて欲しいと、信長への取り次ぎを懇願している。この『石谷家文書』によって『元親記』の記載の信ぴょう性が増し、「四国政策説」が有力とみられるようになったのである。

どうやらこの時点で光秀は取次から外れていたらしい。つまりこの書状を信長が目にしたかの確証はない。さらに書状の日付の約10日後には、信長は本能寺で息絶える。信長が死んだことによって元親は結果的に命拾いしたわけである。

その一方、元親の対応が後手を踏んでいたことも否めない。この対応の遅さは、元親の特徴のように思える。