秀長の大軍勢に屈服するほかなかった
さて天正10(1582)年、神戸信孝を総大将とした四国征伐が、本能寺の変によって中止となると、元親はその後3年間、領土を次々と広げ、天正13年春には四国をほぼ統一する。
実質的に信長の後継者となった秀吉が柴田勝家、家康と織田信雄、紀州(和歌山県)の寺社勢力や雑賀衆らと相次いで戦っている隙に、ちゃっかり版図を広げていたわけだ。
だが秀吉は本州の敵対勢力を片づけると、いよいよ四国に目を向けた。総大将は弟の秀長だった。
天正13(1585)年6月、秀長は阿波に進攻する。共に出陣した甥の羽柴秀次も脇城(徳島県美馬市)を攻めた。
一連の合戦に元親は及び腰だった――というか当初から戦いを避け、和議を望んでいた。だが、この年前半に秀吉と講和(京芸和睦)していた毛利氏が伊予(愛媛県)の領有を望んでいたため、秀吉には元親と交渉する余地が、すでになかったのである。ここでも元親は後手に回っている。
その結果、元親は秀長の大軍勢に屈服するほかなかった。そして「四国国分」と呼ばれる領土配分により、阿波の大部分を蜂須賀家政(正勝の子)、讃岐の約10万石分を仙石秀久、伊予を小早川隆景ら毛利勢に与えるなど、元親は土佐一国に封じ込められてしまう。
二人三脚の終わり、暗転の始まり
元親と香宗我部親泰の兄弟が二人三脚で進めてきた反秀吉路線は、完全に瓦解した。そしてここから、長宗我部の運命は暗転する。
秀吉に従った天正14(1586)年の九州征伐で、まず嫡子・信親が討ち死にする。さらに文禄2(1593)年、文禄の役で朝鮮半島へ渡海しようとしていた矢先、弟の親泰が急死してしまう。
ここに嫡男と、元親を支えてきた弟3人がすべて逝ってしまった。特に親泰の死は、元親に意見をいえる者が誰もいなくなってしまったことを意味していた。
長宗我部は次第に衰退していく。
慶長4(1599)年、元親は世を去った。跡継ぎは第四子の盛親。だが、秀吉の存命中から(秀吉は慶長3/1598年死去)、豊臣政権は盛親を正当な後継者と認めていなかったとの見方がある。実際、盛親は後継に値するような資質、例えば“時代の先”を読む目に欠けており、翌年の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗れる。

