「姫若子」と呼ばれた元親の素顔
若い頃の長宗我部元親は「姫若子」と呼ばれ、色白・長身の若者だったと伝わる。といっても容姿が女性らしいというわけではなく、引きこもりがちでおとなしい、姫のようだとの比喩らしい。
それが永禄3(1560)年の初陣で勇猛果敢に敵に突き進む姿を見せ、家臣の心をつかんだと、『土佐物語』は記す。『土佐物語』は軍記物なので信ぴょう性に欠けるが、元親と同時代を生きた僧侶は「口数が少ない」という人物評を残しており(『朝鮮日々記』)、ぶっきらぼうで愛想のないタイプだった可能性はあり得るだろう。
妻は石谷光政の娘。光政は室町幕府の奉行衆の一人で、13代将軍・足利義輝の側近だった。つまり元親の結婚は当初、幕府との関係強化を目的としていた。
ところが室町幕府は、信長に滅ぼされる。本来なら信長と元親の関係も、悪化しておかしくなかったが、運の良いことに石谷光政は明智光秀の家臣・斎藤利三の兄を養子としていた。これが石谷頼辰だ。
そして頼辰の義理の妹が、元親の妻――光秀が信長と元親を仲介する役を担ったのは、自然の流れだったのである。
長宗我部の嫡男である元親には、3人の弟がいた。元親に従い領土拡大に貢献した者たちだ。その関係は弟・秀長が兄・秀吉を支えた豊臣兄弟を彷彿とさせる。3人をそれぞれ紹介しよう。
元親を支えたもう一つの「豊臣兄弟」
【吉良親貞(次男)】
元親より2歳年下。永禄6(1563)年、土佐の名門だった吉良氏を再興するため養子に出され、吉良親貞を名乗る。長宗我部に立ちはだかる強敵・土佐一条氏との戦いに戦功をあげるなど貢献したが、天正4(1576)年に病死。
【香宗我部親泰(三男)】
元親の3歳下。永禄元(1558)年に土佐七豪族の一つ香宗我部家の養子となる。豊臣でいえば秀長のような、まさに元親の右腕といえる存在だった。
初陣も元親と一緒。前述の『土佐物語』にある「初陣で突き進む元親を見て心をつかまれた家臣」とは、親泰その人であったかもしれない。そうだったとしたら、元親の分身のような補佐役だっただろう。
外交能力に長けていたという。元親の子に「信」の偏諱を賜るよう織田に要請したのも親泰で、また、わざわざ安土城まで赴き、信長に拝謁してもいる。長宗我部の敵対勢力との和睦交渉も担い、また本能寺の変で信長が没したのち、織田信雄(信長次男)や徳川家康と結ぶ際の窓口となった。
【島親益(末弟)】
生誕年が不明のため元親の何歳下かはわからないが、父の長宗我部国親が家臣の島某の娘との間にもうけた庶子で、武勇に優れていたという。元亀2(1571)年、阿波国の海部友光の急襲を受け、命を落とす。元親は嘆き、激怒し、海部氏を討った。それだけ愛すべき、頼りになる弟だったのだろう。

