明智光秀と共謀し信長を討ったか
この天正10年には前述したように6月2日に本能寺の変が勃発しました。信長は重臣の明智光秀に急襲され、討たれるのですが、『多聞院日記』(戦国時代から江戸初期の興福寺多聞院院主の日記)の天正10年6月2日条には、本能寺の変は光秀と「七兵衛」(信澄)が共謀したものとの記述があります。そのような噂が広まっていたことが分かりますが、それは事実ではありません。当時、信澄は四国攻めの総大将・織田信孝(信長三男)に属して大坂にありました。この織田信孝と丹羽長秀が光秀の縁者である信澄を疑い、信澄を襲い、殺してしまうのです。
戦国時代に来日し信長・秀吉とも対面した宣教師ルイス・フロイスの著作『日本史』には信澄殺害に関する記載があります。それによると、信孝は信澄を殺すため大坂に向かいますが、一方の信澄は「自分が殺されはしまいかと恐れ、三七殿(信孝)が入って来ないように内部から盛んに懇請し奔走していた」とのこと。仮に信澄が光秀と共謀し、本能寺の変を起こしていたとしたならば「自分が殺されはしまいかと恐れ」とはあまりにも頼りない態度です。
信長三男に疑われ、非業の最期を
同書には信澄が「明智の一女を娶っていたので、彼が義父と組んでこの謀反を企てたと思わぬ者はなかった」とありますが、実際に信澄が光秀と組んで何か行動を起こしたとは同書には記されていません。「信長に殺された者(信勝)の息子」であり「明智の一女を娶って」いたということで、噂が噂を呼び、そうした風聞が駆け巡ったのでしょう。
それが信澄の不運の始まりでした。信孝は城から出てこない信澄をなんとしても殺すため、丹羽長秀と協議し一計を案じます。それは信孝と長秀の家臣が喧嘩を起こしたということにして、それに敗れた長秀の家臣が信澄の城に逃走。それを追って信孝の家臣が城内に侵入し、ついに信澄を殺害したのです。

