NHK大河が描く本能寺の「黒幕」
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)において織田信長を演じてきたのは小栗旬さんです。一方、信長の甥・織田信澄を演じるのは緒形敦さん。同ドラマにおいて信澄は信長から激しく詰問される役回りですが、信澄の妻の父はあの明智光秀(要潤)でした。天正10年(1582)6月2日、京都本能寺に宿泊する信長を光秀軍が急襲、信長は自害したことはよく知られています(本能寺の変)。
「豊臣兄弟!」では、信澄は舅の光秀に謀反をけしかけたと描かれるのですが、果たして信澄は実際にも光秀を焚き付けたり、または加勢せんとしたのでしょうか。信澄の生涯を振り返りつつ、検討していきましょう。
まず、信澄の父は織田信勝(信行)です。信勝は信長の実の弟でした。戦国時代に限らず、血のつながった兄弟の骨肉の争いというものは多いですが、この兄弟も例外ではありませんでした。信勝は当主である兄・信長に対抗心を燃やし、何度も敵対したのです。それは合戦に発展することもありましたが、それでも信長は信勝を許しています。2人の母・土田御前の取りなしがあったからです(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記『信長公記』)。
信長は信雄の死後、信澄と対面
赦免された信勝ですが、兄にとって代わりたいとの野心が上回ったのでしょう。またしても信長に謀反を企てます。しかし、その謀反情報は信勝に仕えていた柴田勝家により、信長に密告されます。それを聞いた信長は『信長公記』によると、病と称して外出を控えました(もちろん仮病でしょう)。信長の病に土田御前と柴田勝家は信勝に対し、見舞いに行くことを勧めます。信長のいる清須城を訪れる信勝。ところが信勝を待っていたのは、悲惨な最期でした。信勝は信長の命令を受けた河尻秀隆などにより「清洲北矢蔵、天主、次の間」において殺されてしまうのです。これは永禄元年(1558)のこととされます。
そのとき既に信勝には信澄という子がいたわけですが、信長は信勝殺害後に信澄を殺すことはありませんでした。『寛政重修諸家譜』(江戸時代後期の寛政年間に江戸幕府が編修した系譜集)によると、信勝殺害後、信長はまだ幼少だった信澄と対面したとのこと。このとき、信長は柴田勝家に信澄を養育することを命じたとされます。時は戦国乱世、親族であっても油断できない時代。後の禍根を断つために信澄は殺されてもおかしくありませんが、信長はそれをしませんでした。
余談となりますが、信長は親族には甘いところがあって、謀反した兄・織田信広も殺さず、赦免しています。そして京都で室町幕府との連絡役を務めさせ、軍事行動などで活動させているのです。


