蘭奢待を求める奈良行きにも同行
さて、『寛政重修諸家譜』によると、永禄7年(1564)、信澄は元服、津田氏を称したとありますが、これは誤りとされます。信澄も信広のように、織田軍の軍事行動に従ったり、また信長が他国に出かける際にはそれに同行したりしています。例えば天正2年(1574)3月、信長は正倉院に収蔵されている名香「蘭奢待」を観覧するため、大和国に赴きました。その時に信澄は「御奉行」として同行しているのです(『信長公記』)。
翌年8月には越前一向一揆の征伐に信澄も従軍しますが、これが彼の初陣と推測されます。この戦で信澄は柴田勝家・丹羽長秀と共に鯖江の鳥羽城を攻撃し、500~600もの敵兵の首を獲るとの戦果を挙げました。天正4年(1576)、信長は近江国で安土城の築城に着手しますが、信澄もそれに関与しています。その際、信澄は大きな石を山の麓まで運んできたようです。その大きな石は「蛇石」と称せられる「名石」でした。
ところが巨大過ぎて山へ引っ張っていくことができません。そこで羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の3人が1万人余の人々を動員し、3日がかりで石を運び上げたとの逸話が『信長公記』に掲載されています。
安土城にも近い城を与えられる
天正6年(1578)2月、信澄は信長から近江国高島郡を与えられています。それまで同郡を領していたのは北近江の浅井氏に仕え、その後、信長に臣従していた磯野員昌でした。ところがこの員昌は信長の意向に背き、叱責されたことで逃亡してしまいます。よってその所領がそのまま信澄に与えられることになったのでした。
ちなみに『寛政重修諸家譜』によると天正6年2月、信澄は信長から「近江国大溝の城」を賜ったとあります。更に信長は信澄に先祖伝来の刀、正宗の脇差などを与えたのでした。天正9年(1581)10月、信長は平定した伊賀国を検分するため同国に向かいますが、それに嫡男・信忠と信澄も同行させています。天正10年(1582)2月の武田家討伐にも信澄は信長に従いました。また同年5月に徳川家康が上洛した際にも、信長からは大坂で家康を饗応することを命じられています。信澄はそのために大坂に下ります。
「豊臣兄弟!」では信長は信澄を四国の長宗我部元親と通じたとして疑い、叱責しましたが、史料からはそうしたことはうかがえません。疑うどころか、一門衆として信頼し、かわいがっているようにも思えます。


