今日に生きる田中角栄の決断

1970年代に入ってアメリカのベトナムへの派兵圧力が強まると、田中角栄首相は「どんな要請があっても、日本は一兵卒たりとも戦場には派遣しない」と語っていた。田中角栄は、72年6月に出した「国民への提言」(私の十大基本政策)の中で、その2番目として、「憲法九条を対外政策の根幹にし、中華人民共和国との国交回復をすみやかに実現し、アジアと世界の平和に貢献する」と書いている。

角栄政権時代の自民党は、「改憲」を建前としながらも安全保障はほどほどに、経済重視の政策を推進した。多くのことにおいてアメリカに追従し、アメリカの軍事力によって近隣諸国の「脅威」に対処するという小泉純一郎政権以降の日本政府の発想とは正反対に思える。

2019年9月16日の「朝日新聞」の「声」欄に元外航タンカー船長・柿山朗さん(愛知県・70)の「ホルムズ海峡 警護で増す危険」という投書が掲載されている。柿山さんは「イラン・イラク戦争では、日本人船員2人が死亡した。日本船は日の丸を船体に大書して中立を示したが、同盟国である米国が介入した時期から、日本船が次々に攻撃された。私のタンカーもイラン革命防衛隊のガンボートが接近し、銃口を向けられた。商船でも、警護されると敵国の軍事目標とされ、逆に危険度が増すのである」と書いている。

明治の日本を見たイラン人が驚いた光景

メフディ・ゴリー・ヘダーヤト(1863~1955年)はパフラヴィー(パーレビ)朝(1925~79年)時代の1927年から33年まで首相であった人物で、政治回想録やイランの音楽、教育などに関する著作を残している。その紀行文の『メッカへの旅』の中で、1903年末から04年初頭にかけて来日した際の印象を書き記している。

彼は、ガージャール朝時代の宰相であったミールザー・アリー・アスガル・ハーン(アターバクとも呼ばれる)が失脚すると、そのロシア、中国、日本への旅行に同行した。長崎に到着し、それから京都、東京を訪問した。

彼の印象に残ったのは、日本人の質素な生活ぶりだった。

それは京都の御所や東京の皇居も例外ではなく、イランの宮殿の豪華絢爛ぶりとは対照的で、木材や白壁で造営された日本の質実な建造物は彼の心を強くとらえた。金箔などを施した絢爛豪華な宮殿を見慣れているヘダーヤトには皇族といえども簡素な建築物に居住することは新鮮にも思えた。

1915年に撮影された京都御所
1915年に撮影された京都御所(画像=淡交社「写真集成・京都百年パノラマ館」/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons