「妥協を模索する元親」と「殴り続ける信長」
こうした文書の登場も踏まえて、桐野作人は「光秀への期待だった⁉ 最新研究に見る「四国問題」」(『歴史街道』2021年2月号)で改めて四国問題を整理している。
これによれば、切り取り次第の約束を反故にした信長の戦略は、処遇が懸案事項だった一門衆・信孝を三好康長の養子とし、讃岐と阿波を与えるというものだった。これを実現するには、四国への出兵は必然だった。なにしろ阿波では三好勢と元親の勢力が拮抗しており、容易に決着がつきそうもなかったからである。
では元親は徹底抗戦を決意していたのか。桐野はこれを否定する。元親の阿波平定はそもそも進展していなかった。しかも三好勢の側には、本願寺の降伏に納得できない雑賀衆や牢人たちまで流れ込み、状況は混迷を極めていた。追い詰められていたのはむしろ元親の方であり、彼は国境沿いの海部城・大西城の確保で手を打つ、という妥協案へと軟化していたのである。
つまり、これは「野心に燃える四国の梟雄が信長に噛みついた」という話ではない。むしろ逆だ。妥協点を探して降りようとしていた元親と、それを蹴ってでも四国出兵を止めない信長……交渉は、決裂させたい側の意志によって決裂させられていたことになる。
この「妥協を模索する元親」と「それでも殴りにいく信長」というギャップこそが、取次だった光秀・利三主従を追い詰めていった構図だ。交渉の窓口として動いていた人間からすれば、これほど梯子を外されるやり方はない。
伊予で後退…追い込まれていた元親
また、元親が妥協に転じないといけない理由は、ほかにもあった。
東近伸「本能寺ノ変直前の四国の軍事情勢と岡本合戦の意義――土佐側から見た『清良記』・岡本合戦天正九年説の再検討――」(『西南四国文化論争』第20号)は、伊予国宇和郡の岡本城(愛媛県宇和島市)をめぐる岡本合戦について、従来唱えられてきた1579年ではなく1581年の出来事だったと再検討している。この戦いで、一度は城を奪った元親は、西園寺・土居氏の逆襲を受けてあっさり負けている。
つまり本能寺の変のわずか前年、元親は伊予方面で足踏みどころか、後退していた。四国統一の総仕上げなんて夢のまた夢である。「切り取り次第の約束を反故にされて激怒!」なんて熱い展開をやってる余裕は、元親のどこにもなかった。
むしろ現場は真逆だ。統一なんか一旦棚上げしてでも、なんとか信長の機嫌を直して本領だけは安堵してもらう……そんな「もう攻めないんで許してください」モードに、元親は追い込まれていたのである。
野心ギラギラの四国の梟雄が、天下人に噛みついた。そんな威勢のいい話ではまったくない。実態は、頭を下げようとしている元親と、それでも殴る手を止めない信長のあいだで、板挟みになって潰れた交渉担当者の話である。

