史料なき四国説を変えた「石谷家文書」
ここで、中脇は四国問題を信長の対長宗我部政策だけでなく、毛利、三好、河野、西園寺、大友など周辺勢力の動向を加味して見直すことを提唱している。
その状況を一変させたのが、まさにこの中脇論文と同じ2014年に世に出た、ある文書群だった。それが石谷家文書である。
これがとんでもない代物だった。室町幕府奉公衆だった石谷光政・頼辰の親子二代に関連する文書群、正直この名前を聞いてピンとくる人は歴史マニアでもそう多くない。だが中身を知れば「なんでこんな一級品が10年前まで眠っていたんだ」と誰もが思うはずだ。
この文書の存在が知られたのは、わずか10年ほど前のことである。林原美術館の浅利尚民が文書の存在を確認、岡山県立博物館の内池英樹らと共に調査を実施、以降林原美術館と岡山県立博物館の共同調査が進み、その成果は『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』(吉川弘文館、2015年)としてまとめられた。
つまり、本能寺の変から実に430年以上を経て、ようやくこの一級史料に光が当たったことになる。長きにわたり、収蔵庫で眠り続けていたのだ。
“当事者”の手紙がまるごと保存されていた
なぜこの家の文書が特別なのか。石谷家は美濃国方県郡石谷を本領とする武士で、室町幕府の奉公衆だったが、後に浪人。光政は空然と名を変え、娘が嫁いでいた長宗我部元親のもとへ身を寄せる。そして養嗣子の頼辰は、実の弟である光秀の重臣・斎藤利三と行動を共にしていた(内池英樹「林原美術館所蔵石谷家文書の調査・研究について――石谷親子宛近衛前久書状の若干の考察を添えて――」『織豊期研究』第24号)。
つまりこの一族、片や長宗我部側の内部、片や光秀陣営の中枢という、事件の両サイドにピンポイントで足がかかっている。現代で言えば、対立する二つの企業の役員室に、それぞれ自分の親族が座っているようなものだ。
しかもその家に残っていたのが、単なる私信の束ではない。文書全体は47通の書状類が3巻にまとめられたもので、中でも近衛前久の書状は、安土城での信長と前久をめぐる周辺事情を生々しく記しており、両者がかなり近しい関係にあったことを窺わせる。
黒幕探しに使い古された「状況証拠」ではない。事件の当事者一族の手元に、当事者自身が書いた手紙が、まるごと保存されていたのである。

