空白だった「悪様に信長へ申し成す者」

2020年、熊田千尋「本能寺の変の再検証」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第25号)は、この構図に最後のピースをはめ込んだ。

これまでの研究は、いわば「誰かが元親を悪く言って、信長がそれを信じた」というところまでは掴んでいた。だが、その「誰か」の名前だけは、ずっと空白のままだった。史料には「或る人」「佞人」としか出てこない。犯人はわかっているのに名前だけ伏せられている、推理小説でいえば犯人当ての一歩手前で毎回ページが破れているようなものである。

熊田はこの空白を、近衛前久が本能寺の変の翌年、元親のもとにいた石谷父子に宛てて出した書状――から埋めていく。前久はこの手紙の中で、1581年の冬、安土で元親の処遇をめぐって「悪様に信長へ申し成す者」がいたこと、自分がそれに反論して元親を庇ったこと、その結果として自分自身が後々光秀との共謀を疑われる羽目になったことを、恨み節混じりに書き綴っている。

読み解けば、この「悪様に申す者」こそが、四国政策を土佐一国切り取りにまで追い込んだ張本人ということになる。

光秀の天敵は、信長の堺代官・松井友閑

では、誰なのか。

ここで熊田が持ち出すのが、前久自身が別に残していた回想録である。そこには、こう書かれている。

のふなか(信長)のこ(子)三七(織田信孝)へ、ゆうかん(友閑)さゝへ申し、われわれにめいわく(迷惑)させ候ハんとて、せはめられ候(近衛前久回想録)

信長の子・信孝に讒言し、自分たちを追い詰めたのは友閑だったのだ。友閑とは、信長の堺代官・松井友閑のこと。信長の茶会段取りを仕切り、正月には光秀と並んで安土城「御幸之間」を最優先で拝観するほどの側近中の側近だ。

つまり、光秀の外交上の天敵は、朝廷でも謀反人予備軍でもなく同格ライバルだったわけだ。

明智光秀画像
明智光秀画像(写真=岸和田市 本徳寺所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

熊田は、この論証を、最後にこうまとめている。

その結果、信長の四国政策の変更過程で元親の取次ぎ役である明智光秀が、外交面で松井友閑に敗北し、さらに最後の説得交渉も信長から無視され、立場を否定されるといった織田政権内での格下げに繋がる状況に追い込まれて、謀叛実行に向かっていく流れがより明確になったのではないかと思う。