NHK「豊臣兄弟!」は、ついに本能寺の変へと突き進む。直前の放送回では、秀吉の養子・秀勝の初陣を祝う宴が描かれる。秀勝は、秀吉にとってどのような存在だったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、最新研究などを基に史実をひも解く――。
重要文化財 狩野光信《豊臣秀吉像》
重要文化財 狩野光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉の周りにいた「3人の秀勝」

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。いよいよ本能寺の変に向かう第26回「信長を笑わせろ!」(7月5日放送)では、秀吉と小一郎が、秀吉の養子にしていた秀勝の初陣にあたり激励を賜りたいと、信長を長浜城に招くシーンが描かれる。

秀勝は、今回が初登場。視聴者の多くは「秀勝って誰?」と思うのではないだろうか。

そもそも、この秀勝という人物はややこしい。というのも秀吉の周りには「秀勝」が3人いる。ひとりが実子の秀勝、つづいて信長の四男(於次丸、五男説も有力)、甥(小吉、後に豊臣秀勝、文禄の役にて陣中で死去)。

同じ名前を3回使い回す男など、戦国大名の中でも秀吉くらいのものだ。

そのため、秀勝の事蹟はところどころでややこしい。例えば、長浜八幡宮の例大祭・長浜祭で行われる曳山の起源は、次のように伝えられている。

天正年間、秀吉が羽柴筑前守と名乗り、長浜城主であった時、秀吉は、側室丸之丸(京極高次の妹)との間に男子を得た、この喜びを城下の町民と共にしようと、ふるもうた若干の砂金を基金として、町民は八幡宮の祭礼に12輌の曳山を造り、城下町を曳廻ったのが、長浜曳山祭の始まりであるといわれている(長浜曳山祭文化財保護委員会『長浜曳山祭調査報告 第1(青海山)』長浜曳山祭文化財保護委員会、1959年)。

大河に登場するのは信長の子「次秀勝」

これについて、森岡栄一「羽柴於次秀勝について」(『市立長浜城歴史博物館年報』第1号、1987年)では、次のように記している。

これらの「秀勝伝承」によって、長浜における於次秀勝の事蹟は、まったく等閑視されてしまったといっても過言ではない。本稿では、湖北に関係する於次秀勝文書を中心に、新出史料を交えて紹介し、於次秀勝と湖北・長浜の関係を再考する。

ここからは、今回登場する二人目の秀勝が何者であるか研究が進んだのは、ここ40年ばかりのことに過ぎないことがわかる。

その呼称についても、於次丸秀勝または於次秀勝と呼ばれて来たが、近年、黒田基樹は長浜八幡宮の奉加帳に「次秀勝」と署名していることに着目。呼称も次秀勝が適切なのではないかとしている。これは、『シリーズ・織豊大名の研究 13 羽柴秀吉一門』(2024年、戎光祥出版)に所収された黒田の「総論 羽柴秀吉一門の研究」で触れられている、まだ新しい説だ。そのため、今後は「次秀勝」の呼称が次第に定着していくのではないかと思われる。