お飾りではない…兵を動かし、行政も回していた

ここで尾上は、1580年時点での秀勝の文書初見は秀吉との連署であったが、1581年2月以降になると秀勝が単独で高札等を発給するようになるとする。

一方で、それまで長浜領統治に関わっていた秀吉の文書は1581年4月以降、播磨からの発給はなくなる。これらの事実から尾上は、1581年2月から8月にかけて、秀勝が秀吉の代行者として長浜領を実質的に統治する体制が確立されたと位置づけている。

さらに軍事面においても、秀勝が直属の軍事力として伊藤介・合田兵介らからなる「なかはま衆」1500人を率いていたことを指摘。初陣以降は「なかはま衆」以外の部将に対しても事実上の軍事指示を行うなど、軍事指揮権の行使対象をさらに拡大させていったとしている。

秀勝が元服以降、羽柴の名字や国政を担う立場に就いていた――秀吉の後継者としての地位が確定していたことに加えて、秀吉の領国が長浜と播磨の二つに分かれたことで、長浜の統治を秀勝に委ねる必要性が生じたという実務的な要因もあった。いずれにしても、秀吉の権勢拡大が、秀勝を通じた織田家との一体化を促進していたというわけだろう。

つまり、単なる名目上の「お飾り養子」ではなかった。1500人の兵を実際に動かし、長浜領の行政も回していた。ここまでは、次秀勝はちゃんと実体のある地位を築いていたのである。

「秀吉=信長の同胞」に仕立て上げた

そして、この「実体」を、秀吉自身が思いっきり政治利用している。秀吉の側近であった大村由己『惟任退治記』は、秀吉が光秀を打ち倒したことを正当化するための軍記物だが、そこには、こんな一文がある。

剰相公第五男御次丸為猶子被下所也、然者秀吉同胞合体之侍也
(塙保己一編『続群書類従 第20輯ノ下 合戦部』続群書類従完成会、1923年)


筆者訳:
あまつさえ、相公(織田信長公)の第五男である御次丸を猶子として下されたのである。そうであるならば、秀吉は(信長公と)同胞(きょうだい・一族)であり、一体となった存在である。

これこそが秀吉の真骨頂だ。秀勝という「信長の血」という実体を秀吉は最大限に膨らませ、「自分は信長の極めて近しい一族だ」という物語にまで仕立て上げてしまっているのだ。実態は、息子を養子にもらい受けた家臣に過ぎないのに、その僅かな縁を何十倍も濃厚にしている。光秀討伐を軍記物として正当化するだけでなく、「秀吉=信長の同胞」ロジックでライバルに差を付けようとしたのか。だとしたら、本当に抜け目がない。

狩野元秀画、織田信長像
狩野元秀画、織田信長像 賛・跋。原本は愛知県西加茂郡挙母町長興寺所蔵(写真=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この秀勝の利用が、本当に最高潮に達するのは、本能寺の変後である。信長死後の後継者を決める清須会議は、信忠の遺児である三法師(織田秀信)が家督を継ぎ、信孝が後見、安土城を再建した上で迎えるということで一旦の決着をみた。しかし、信孝は柴田勝家らと結んで秀吉と対立。対する秀吉は、丹羽長秀や池田恒興らと共に織田信雄を家督に擁立し、1583年の賤ヶ岳の戦いへと繋がっていくことになる。