信長から養子を得る=一族の将来を盤石にする
さて、ここで気になるのは、なぜ秀吉が信長の子供を養子としてもらい受けたかという点だろう。これについては、史料からは推測の域をでない。宮本義己「北政所の基礎知識」(『歴史研究』456号)では、おねが、実子のなかった家中の安泰を図るために信長に懇願した結果であるとしている。
確かに、一足飛びに出世した秀吉にとって、血族の少なさは不安でしかない。側室が産んだ石松丸が生まれた時には、上記のように砂金を振る舞うほどの喜びようだったにもかかわらず夭折してしまっている。長浜城主になったのは30代後半であり後継者の養成は急務だったといえる。
さらに、信長から養子を得ることは一族の将来を盤石にするものでもあった。日本史史料研究会の編んだ『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(洋泉社、2014年)に収録された、小川雄「信長は、秀吉をどのように重用したのか」は、次のように記している。
進んでいた秀勝への権力移譲
秀勝を養子としてもらい受けたのは1576年頃とされる。翌年の手取川の戦いでの無断撤退というピンチに遭遇した秀吉だが、それを乗り越えて西国攻略で権勢を拡大している頃である。そして、秀吉が播磨を攻略している間、1581年以降には、長浜領で秀勝単独の署名がある書状も発行されるようになっている。
これは、権力移譲が進められていたことを明らかにするものだろう。つまり、秀吉は信長の息子を後継者とすることで、織田一門の一角という地位を確立させようと図ったのだ。信長の立場でも、西国攻略で領域を拡大する秀吉を一族として取りこむことには意義があった。
さて、今回ドラマで描かれる秀勝の初陣は1582年の備前国児島への出兵であった。
三月十七日、御次公、御具足初めにて、羽柴筑前守秀吉御伴仕り、備前児島に御敵城一所相残り候、此の表へ相働き、手遣ひの由、注進これあり。
筆者訳:
三月十七日、御次公が、初めて鎧兜を着用する儀式として、羽柴筑前守秀吉がお供をして出陣された。備前国の児島に、敵の城が一つ残っており、この方面へ出撃して(秀勝公自ら)敵と交戦された(手遣い:自ら武器をとって戦う、または采配を振るうこと)との報告が届いた。(「信長公記」『戦国史料叢書 第2』人物往来社、1965年)
この「単独署名」や「初陣」は、次秀勝自身がどこまで実権を持っていたことを意味するのだろうか。
尾上成敏の研究によれば、秀勝は1581年以降に長浜領の統治代行者としての地位を確立、翌年の初陣以降は軍事指揮権を急速に拡大させていたことがわかる(尾上成敏「信長在世期の御次秀勝をめぐって」『シリーズ・織豊大名の研究 13 羽柴秀吉一門』戎光祥出版、2024年)。これによれば、秀勝が、織田宗家と羽柴家の一体化を実質的に進めるためにいかに重要であったかが、わかる。

