“織田家の簒奪者”ではなく“正統な後継者”に

この間、1582年10月には、京都で信長の葬儀が行われている。この葬儀は盛大ながらも、三法師や信孝、信雄は参列しないというものであった。それでも葬列は3000人あまりに及んでいた。これは、秀勝の存在により、秀吉が単なる簒奪者ではない、一定の正統性を保つことができていたことを示すものだ。

以降、秀吉は、秀勝を通じて信長の祭祀を執行することによって、簒奪者ではなく正統な後継者という立場を確立しようとしていた。秀勝は信長の実子である。秀吉が簒奪者のように見えても、その次は信長の息子である。これなら、誰からも文句のつけようがなかったはずだ。

しかし、その秀勝の身に異変が生じる。1583年2月、丹波亀山城内で病に伏せるようになったのだ。もっとも3月には書状の発給が続いており、この時点ではまだ地位を保持していたことは確認できる(前出、森岡栄一「羽柴於次秀勝について」『市立長浜城歴史博物館年報』第1号)。

1585年7月には従三位左近衛少将に任ぜられ、まもなく正三位、さらに権中納言へと昇叙が続いている(渡辺世祐『豊太閤の私的生活』創元社、1939年)。地位は上がり続けたが、病状は快方に向かわなかった。そして同年12月、秀勝は丹波亀山城内で息を引き取った。18歳だった。

秀勝がいたから“天下人になれた”

秀勝が世を去った頃、秀吉はすでに賤ヶ岳・小牧長久手という二つの大きな戦を終え、1585年7月には関白にまで就任していた。関白という位は、織田本家の誰ひとりとして手の届かなかった高みである。

1582年の葬儀の時点では、秀吉はまだ自前の権威を持っていなかった。だからこそ秀勝を喪主に立て、信長の血を借りて「自分は簒奪者ではない、織田家の庇護者だ」と演出する必要があった。

しかし秀勝が実際に死んだ時、秀吉はもうその演出を必要としていなかった。官位はとうに織田本家を追い越し、天下人としての地位は誰の目にも明らかになっていた。秀勝という駒は、盤上で一番役に立つ時期に使い切られ、もう用がなくなった頃にひっそりと退場したのである。

秀吉は織田家を乗っ取った。だが、それは一足飛びの簒奪劇ではなかった。信長の実子を養子に迎え、その血と地位を庇護者の証として使い倒す。

おそらく当初は、それによって織田一門の一角としての地位を盤石にすることを考えていたのだろう。だが本能寺の変が起きたことで、それは秀吉が「一門」では終わらない原動力へと転じた。官位で織田本家を追い越し、最後には天皇の臣下としての格そのもので織田家を超えていく……秀勝を通じた周到な権威の創出こそが、百姓の子・秀吉を天下人に押し上げたのである。

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