ストレスフルな島生活で「豚同様」に
西郷といえば、恰幅のいい体格で知られているが、島に流される前はスマートだったという。寝て食ってばかりの島での生活が、西郷を不健康な肥満体へと変貌させたようだ。大久保らへの手紙で「豚同様にて」と自虐的に近況を報告している。
現地で結婚して子どもをもうけたかと思うと、狩りや釣りを始めるなど、島の生活にも少しずつ慣れた西郷。それでも島生活の始まりから一貫して、帰藩を願い続けたのである。
一方の薩摩藩では、大久保が趣味の囲碁を通じて、斉彬の弟・久光と接点を持ち、重用されるようになった。西郷の苦境を案じた大久保は、船が出るたびに衣類や生活必需品を送り届けた。また西郷の復帰に備えてのことだろう、頻繁に手紙で社会情勢を知らせている。
そんな大久保だから、久光によって小納戸頭取に任命されると、すぐさま「西郷の帰藩を許してほしい」と働きかけている。この頃、久光は亡き兄・斉彬の遺志を継いで、朝廷と幕府が手を結ぶ「公武合体政策」の実現と幕政改革を促すために、兵を率いて上京することを計画していた。
それには、斉彬とともに京に上ったことがある西郷の経験が必要だ、と大久保は久光を説得。大久保の努力が実り、西郷は島からの帰還が許されることになる。
ところが、せっかく島から戻って来たにもかかわらず、わずか5カ月後に、34歳の西郷は2度目の島流しとなってしまう。原因はあろうことか、久光への暴言である。
ついに久光の堪忍袋の緒が切れる
西郷は久光の上洛計画を本人から聞かされると、それに反対し久光にこう言い放った。
「あなたのような地五郎(田舎者)に、斉彬公の代わりは務まるはずもない」
西郷の言い分にも一理ある。斉彬の死後、藩主の座は弟の久光ではなく、久光の子である忠義へと引き継がれた。忠義がまだ幼いため、藩主の父である久光が実権を握ってはいたものの、対外的には、藩主の身内に過ぎない。
つまり西郷は「官位を持たず藩主でもない久光には、中央政局で発言する資格すらなく、相手にされないだろう」と考えて、率直にそれを告げたのである。京で実際に奔走したことがある西郷ならではの見解だったが、西郷復帰のために東奔西走した大久保は、久光の横で青ざめたことだろう。
久光は西郷への怒りをいったん抑えて、挙兵上京に踏み切るが「下関で私の到着を待つように」という命令を、西郷は無視。勝手に大阪へと行ってしまうと、久光の堪忍袋の緒は完全に切れた。西郷は捕縛されて、再び島流しにされている。
西郷は徳之島に流されて75日間を過ごしたのちに、さらに南西へ70キロ離れた沖永良部島に配流。過酷な監獄生活を余儀なくされた。


