「暴れ馬」で手がつけられないほどキレる
なにしろ、怒ったときは、烈火のごとくにキレまくる。鞘から刀身を少し出して鞘に収めて音を出して、「いつでも斬ってやるぞ」と威嚇するのが常だったというから、温和な「西郷さん」のイメージとは随分違う。
ケンカを吹っかけられれば、公衆の面前で相手を投げ飛ばしてしまい、そのことから恨みを買って、のちに襲われて刀傷を負うこともあった。
そんな暴れん坊が「このままではいけない」と考えたのは、西郷が19歳の時に下加治屋町郷中の「二才頭」を務めることになり、同世代のリーダーとして仲間を束ねなければならなくなったからだ。
西郷は、円了無参という禅僧の門を叩いて、精神を落ちつけるべく禅を学んだ。そうまでしなくてはならないほど、若き日の西郷は暴れ馬だったのだ。
若き日の西郷が出世するきっかけとなったのは、23歳のときに、薩摩藩の藩主に島津斉彬が43歳(満41歳)で就任したことだ。斉彬から「藩士から広く意見を求める」と布告されると、西郷はそれに応えて、藩政改革や農政改革についての意見書をたびたび提出するようになる。
その意見書が斉彬の目に留まり、西郷は庭方役に抜擢される。「庭方役」とはその名の通り、庭の掃除や警備を行う役職だが、斉彬は西郷を自分の傍に置くべく、その役目を与えたのである。西郷は斉彬の片腕となり、江戸や京都で一橋慶喜を将軍にするための擁立運動に、粉骨砕身することとなった。
だが、ここから西郷の人生は暗転する。
恩人の死に絶望し、自決しようとするも…
恩人の斉彬が49歳で急死してしまい、大老・井伊直弼の弾圧「安政の大獄」によって、西郷の身にも危険が迫る。西郷は絶望のなかで、同志である僧の月照とともに海に身投げを決行するも、自分だけが助かっている。
1人だけ死にきれずに生き残った西郷。一時は後を追うことさえ考えたが、現場にかけつけた大久保から「あなただけが生き残ったのは、天が、国家のために力を尽くさせようとしているから」と説得されて、自決を思いとどまっている。
生き残っていることを幕府に知られないほうがよいと判断した薩摩藩によって、西郷は31歳で奄美大島に送られることになった。
島で西郷は、島民たちが薩摩藩に砂糖の生産を強いられた挙句、搾取されていると知って激怒。役人の島民たちへの暴力に立ち向かうなど、西郷らしい正義感も発揮している。
しかしながら、西郷が島民たちと心をともにしたとは言い難かった。当時、西郷が書いた手紙によると、島の住民とは言葉が通じにくく「交わりは極めて難儀」と本音を漏らしている。
湿潤な気候も肌に合わず、体調不良に苦しめられた西郷。少しでも状況を変えるため「せめて転居させてほしい」と親交のある代官に願い出たほどである。

