奇想の画家・岩佐又兵衛も落胤か
また、国宝「洛中洛外図屏風」などを描いた奇想の絵師・岩佐又兵衛を村重の落胤とする説は有名である。
この他に、細川家に仕えた善兵衛、岸和田で豪農となった源太夫などを村重の子とする伝承がある。
そして、当の村重も本能寺の変の後までしぶとく生き延び、堺の町へと移って茶人の道薫と名乗り、秀吉に仕えたという。天正14年(1586年)、村重は52歳でこの世を去った。
子孫は秀吉や徳川家を頼った
村重の従兄弟・荒木元清は花隈城で1万8000石を領した。有岡城落城後に花隈城も池田恒興に攻められたが、船で逃亡し、毛利家を頼った。本能寺の変後に秀吉に仕えたが、秀次事件に連座して遠流。後に帰京した。馬術に秀で、荒木流馬術を創設した。
元清の四男・荒木元満は父とともに遠流された後、黒田長政(官兵衛の嫡男)に仕えた。大坂の陣で、将軍・秀忠に父譲りの馬術を披露して、元和元(1615)年に1500石に取り立てられ、子孫は旗本に列した。元満の兄・石野治一も同時期に秀忠に仕え、子孫は2200石の旗本に列した。
村重の小姓から秀吉の家臣となった荒木重堅(のち木下備中守)は、村重の一族と考えられるが、『群書系図部集』では村重の叔父とし、『系図纂要』では荒木元清の子に「荒木平太夫」を繋げているが、定かでない。
また、荒木村重と同様に、池田家の重臣から成り上がった中川瀬兵衛清秀は、村重の従兄弟という説があるが、具体的な関係(父方の従兄弟なのか、母方なのか)は不明である。ちなみにキリシタン大名として有名な高山右近重友は、中川清秀の父方の従兄弟である。


