奇想の画家・岩佐又兵衛も落胤か

また、国宝「洛中洛外図屏風」などを描いた奇想の絵師・岩佐又兵衛を村重の落胤らくいんとする説は有名である。

荒木村重の落胤と言われる岩佐又兵衛の自画像(MOA美術館所蔵)、江戸時代
荒木村重の落胤と言われる岩佐又兵衛の自画像(MOA美術館所蔵)、江戸時代(写真=『岩佐又兵衛』新潮日本美術文庫/PD-Japan/Wikimedia Commons

この他に、細川家に仕えた善兵衛、岸和田で豪農となった源太夫げんだゆうなどを村重の子とする伝承がある。

そして、当の村重も本能寺の変の後までしぶとく生き延び、堺の町へと移って茶人の道薫どうくんと名乗り、秀吉に仕えたという。天正14年(1586年)、村重は52歳でこの世を去った。

子孫は秀吉や徳川家を頼った

村重の従兄弟・荒木元清は花隈城で1万8000石を領した。有岡城落城後に花隈城も池田恒興に攻められたが、船で逃亡し、毛利家を頼った。本能寺の変後に秀吉に仕えたが、秀次事件に連座して遠流。後に帰京した。馬術に秀で、荒木流馬術を創設した。

元清の四男・荒木元満は父とともに遠流された後、黒田長政(官兵衛の嫡男)に仕えた。大坂の陣で、将軍・秀忠に父譲りの馬術を披露して、元和元(1615)年に1500石に取り立てられ、子孫は旗本に列した。元満の兄・石野治一はるかずも同時期に秀忠に仕え、子孫は2200石の旗本に列した。

村重の小姓から秀吉の家臣となった荒木重堅(のち木下備中守)は、村重の一族と考えられるが、『群書系図部集』では村重の叔父とし、『系図纂要』では荒木元清の子に「荒木平太夫」を繋げているが、定かでない。

また、荒木村重と同様に、池田家の重臣から成り上がった中川瀬兵衛清秀は、村重の従兄弟という説があるが、具体的な関係(父方の従兄弟なのか、母方なのか)は不明である。ちなみにキリシタン大名として有名な高山右近重友は、中川清秀の父方の従兄弟である。

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