伊丹親興を滅ぼし、有岡城主に

元亀元年頃、荒木村重は「摂津の三守護」池田家のまとめ役となった。ところが、翌元亀2年にもう一人の和田惟政が討ち死にしてしまう。

そして、元亀4(1573)年に義昭が信長に反旗を翻した時、主の池田知正、伊丹親興をはじめ畿内の諸将が義昭側についた。信長が義昭を討つために上洛。逢坂関(近江と山城国境)で信長を迎えたのは、荒木村重と細川藤孝の二人だけだった。いうまでもなく、これが大出世への途へ繋がった。

義昭追放後、畿内の諸将は没落し、村重は摂津の大部分の一職支配を認められた。天正2(1574)年11月、村重は伊丹親興を攻め滅ぼし、伊丹を有岡と改名して居城とした。