「触れること」を失った人間は何を持つか

そして、ハイデガーが警告した本質的な問題は、ここから始まる。

彼は「存在忘却」を警告した。世界を資源として扱う時、人間は世界の本来の姿を忘れる。身体を外部化した人間は、「身体で世界に触れること」の意味を忘れるのではないか。

職人が1日かけて削り上げる木材の感触。外科医が指先で感じ取る組織の弾力。料理人が混ぜる生地の粘度の変化。これらはすべて、「身体で世界に触れること」の経験である。それは単なる作業ではない。身体を通じて、世界と対話する経験である。職人は木材と対話する。外科医は患者の身体と対話する。料理人は食材と対話する。これがすべてデータ化され、ロボットに実装された後、人間はもはや「触れる」必要を持たない。

しかし、触れることを失った人間は、何を持って世界に対峙するのか。世界と対話する身体を失った人間は、なお人間と呼べるのか。

これは、技術の段階が深まるほどに、深刻になる問いである。

蒸気機関の時も「解放」と言われた

マルクスが『資本論』で見抜いたのは、機械が必ずしも労働者を解放せず、むしろ搾取を効率化する側面を持つという逆説だった。「機械(テクノロジー)は労働者を解放しない。搾取を効率化する」といったような趣旨だった。

19世紀、蒸気機関が工場に入った時、人々は言った。「労働者が解放される」と。

古い蒸気機関
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実際に起きたのは、労働時間の短縮ではなかった。搾取の効率化だった。子供たちが長時間労働に駆り立てられ、職人技は工場の流れ作業に置き換えられた。手織りの職人たちは仕事を失い、工場の単純労働者になった。「解放」という言葉の裏で、人間の労働は別の形に組み立て直された。

マルクスがロンドンで観察したのは、まさにこの逆説だった。テクノロジーそのものは中立かもしれない。しかし、テクノロジーが特定の社会構造の中に置かれた時、それは必ず特定の方向に作用する。蒸気機関は労働者を解放する装置ではなく、労働者をより効率的に使役する装置として、当時の資本主義に組み込まれた。

20世紀には、自動化が来た時、再び「労働者が解放される」と言われた。実際には、職を失う労働者と、ますます高度な技能を求められる労働者に二極化した。事務職の自動化は、事務員を解放したのではなく、別の労働市場へと押し流した。

そして21世紀、ヒューマノイドが来る時代に、再び同じ言葉が聞こえる。「人間が解放される」と。