身体は拡張しているか、それとも外部化しているか?

しかし、ここで決定的な問いが生まれる。

身体が「拡張」されているのか。それとも身体が「外部化」されているのか。

拡張は、人間の身体がロボットを通じて、世界にもっと深く触れることだ。重い物を持ち、危険な環境で作業し、何時間も疲労なく動き続ける――人間単独では不可能だった能力を獲得する。外科医がロボット支援手術で、肉眼では見えない領域に到達するように。宇宙飛行士が遠隔ロボットで、人間が立てない天体表面を探査するように。災害救援チームが、人間が入れない瓦礫の下に手を伸ばすように。

手術台の上に設置された、医療用手術ロボット
写真=iStock.com/PhonlamaiPhoto
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外部化は、人間の身体がロボットに置き換えられることだ。技能はロボットに転写される。人間はやがて、その技能を行使する必要さえなくなる。そして、行使しなくなった技能は、世代を経るごとに失われていく。

目の前の現場では、これは「拡張」だ。しかし、次の段階(エンドツーエンド)では「外部化」になる。その境界線はどこにあるのか。

これが、本書で論じた「技能主権」の問いである。技能を、誰が、どのような条件で、何のために握るのか。技能を行使する権利と能力を、人間が保持し続けるのか、機械と機械の背後にある企業に明け渡すのか――この問いに答えられない国家・企業・個人は、フィジカルAI時代の主体ではなく、客体になる。

職人の手が「計算資源」になる日

「Gestell(ゲシュテル)――世界が資源として組み立てられる」
「技術の本質は、技術的なものではない」
――マルティン・ハイデガー

20世紀半ば、ハイデガーは近代テクノロジーの本質を「Gestell(総駆り立て体制、総動員構造、囲い込み構造)」と呼んだ。森が「木材資源」として、川が「水力資源」として、地下が「鉱物資源」として組み立てられる――世界のすべてが「役立てるべき資源」として現れる時代である。

ハイデガーが警告したのは、テクノロジーが個別の道具を超えて、人間の世界の見方そのものを変えてしまうことだった。森を見て「美しい」と思う前に「木材何立方メートル」と計算する。川を見て「清らかだ」と感じる前に「水力何メガワット」と算定する。これがGestellである。

そして今、ヒューマノイドが工場に並ぶ時、人間の「労働」そのものが「資源」として組み立てられる。

職人の技能がデータになる。データがモデルになる。モデルがロボットに実装される。人間の身体的熟練――職人の手、外科医のメス、料理人の感覚――これらが「計算資源」として組み立てられようとしている。

エヌビディアが「思考」を資源化したように、フィジカルAIは「身体」を資源化する。