いつのまにか背後で門が閉まり引き返せない

そうこうするうちに、ドローゴは40代になりました。彼は自分が変わったとは思っていません。「時があまりにも速く過ぎ去ったので、心が老いる間がなかった」のです。

40代になっても50代になっても、気持ちは30代前半のままというのは、同世代からよく聞く話です。けれども心身は確実に衰えています。

ドローゴは若いころのように馬を乗り回したいと思わなくなり、階段を二段ずつ駆け上がる競争もしなくなった自分に気づきます。もちろん、中年だってやろうと思えばできるのです。でも、そんな気になれない。

これこそが、本書で幾度となく提示される「時の遁走」です。それは次のように描写されます。

そのときまで、彼は気楽な青春期を歩んできたのだった、その道は若者には無限につづくかに見えるし、また歳月はその道を軽やかな、しかしゆっくりとした足取りで過ぎて行くものだから、誰もそこからの旅立ちに気がつかないのだ。物珍しげにまわりを見ながら、のんびりと歩いて行く、急ぐ必要はさらさらない、後ろからせきたてる者もいなければ、きで待っている者もない、仲間たちもしょっちゅう立ち止まってはふざけながら、のんきに道を行く。家々の戸口からは、おとなたちが優しく挨拶をして寄こしながら、うべなうような笑みを浮かべて地平線の方を指し示す。こうして、英雄的な、あるいは甘い望みに心が躍りはじめ、先きで待っているいろんなすばらしいことを前もって想像裡に味わうのだ(…)

だが、あるところまで来て、本能的に後ろを振り返ると、帰り道を閉ざすように、背後で格子門が閉まりかけている、そしてあたりの様子もなにか変わってしまっていることに気づく

そしていつのまにか背後で門が閉まり、決定的に引き返せなくなる。ついにはひとりぼっちになり、気づかぬまま通り過ぎた「いいこと」は、すでにはるか後方にあって、もう二度と取り戻せないのです。

生きることは常に失い続けること

人生に遅すぎるということはない、と言い切りたいところですが、人生が無限に続くわけではないのは厳然たる事実です。やりたいこと、やめたいことがあるなら、すぐとりかかったほうがいい。

それなのに私たちは、年を取れば取るほど、習慣という鎖から抜け出しづらくなります。

とっくに冷めているのにだらだらと続けてしまう恋愛、違和感を覚えるようになっても切れない友人関係、いつか配偶者が変わってくれると信じて終わらせられない結婚生活、何か面白いことが起きているのではないかと期待して延々とスクロールしてしまうスマートフォン……。

堀越英美『あなたのモヤモヤに効く世界文学』(筑摩書房)
堀越英美『あなたのモヤモヤに効く世界文学』(筑摩書房)

引き返せない悲しみと孤独。生きることは常に失い続けることだと思い知る感傷の甘み。人生とはそのようなものだという諦念。

時代も国も定かではない辺境の砦という寓話的な舞台設定ではありますが、本書が描くのは生々しい人生の現実です。

本書を読んで、ぞっとして環境を今すぐ変えたくなる人もいるでしょう。

どこに行っても大して変わらないのだから、現状維持でいいと割り切れる人もいるでしょう。

筆者は「戦うなんて面倒臭いことをせずにお給料がもらえるなら、それでいいのでは……」と思ってしまいました。若いつもりの自分の中の「老い」と向き合える小説です。

『タタール人の砂漠』

ブッツァーティ、
脇功訳、岩波文庫、2013年

ディーノ・ブッツァーティ(1906―72)はイタリアの小説家。ミラノ大学法学部を卒業後、同市の「コッリエーレ・デッラ・セーラ」紙に入社。ジャーナリストとして活動するかたわら、創作活動を開始。1933年、長編処女作『山のバルナボ』で注目を集める。長編第三作『タタール人の砂漠』(1940)、短編集『七人の使者』(1942)など、幻想的で寓意性の高い作品を発表。その作風から「カフカの再来」を称され、これらの作品は、20世紀の幻想小説の古典と評されるように。晩年にはSF的な手法を用いた長編小説『偉大なる幻影』(1960)、現実のミラノを舞台にした長編小説『ある愛』(1963)などを発表。72年、癌のため65歳で死去。(編集部)

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