第一歌集を出版、46歳のデビュー
ヨーロッパ7カ国を巡る旅は、昼は観光、夜は歌会の2週間となった。
「団長は窪田空穂の御子息の章一郎さん、アララギ系、空穂系の方達と、水甕からは私だけ。毎日、歌を作らなきゃいけなくて、自分の歌とまた違う歌を知って、その違いをひしひしと感じました。歌のことだけを考えた2週間でした。帰国後も30首の競詠があって、これが『北国断片』という歌集にしようというきっかけになったと思います」
昭和47(1972)年元旦、春日さんは苫小牧の海で初日の出を見た。
「夫は渋々着いてきたけど、私はどうしても見たかった。何も見えなかったものが、太陽が昇ることによって少しずつ形を帯びるということに感動して、そこから歌が変わるんです。光が、形づけていくわけでしょ。雲も他のものも何も生まれ得ていないものが、太陽によって見えてくるんだという」
6月、夫の東京本社への異動が叶い、春日さんは東京に戻ることとなった。そして11月に第一歌集『北国断片』を出版、46歳でのデビューとなった。巻頭に置かれたのは、生身の肉体を持つ女性であることを大胆に歌い上げた、「新しき浴衣」の歌。今も変わらず、向き合っている思いだ。
しかし、この時点で春日さんはすでに、その「先」へと向かっていた。
短歌の猛勉強が始まった
「自分の歌の在り方に疑問を抱き始めて、自分の生き方について語るのはやめたいなと思ったんです。東京は光の量が北海道とはまるで違うものがあって、そういう光も刺激になったし、短歌の猛勉強を始めたんです。やっぱり、古典は読んでおかなきゃ。短歌が、どう変遷してきたのか。なぜこの時代はこうなったのか、考えるんです」
いづみさんは、そんな母の姿をよく覚えている。
「東京に戻ってからの馬力がすごかった。眠っていた何かが、起き上がるみたい。クレーやドイツの神秘主義にも惹かれて、いろんなことに興味を持って勉強していました」
そこにあったのは、変えよう、変わろうという並々ならぬエネルギーだ。
「そのために、光を使ったんです。光によって何が見えるかってことばかりを考えていた。それで、焼き物を始めたんです」
父・松田常憲の弟子で「水甕」の編集を担っていた熊谷武至さんとは、焼き物の趣向がまるで違い、主張が食い違う。
「『茶碗も作ったことがないくせに』って、熊谷武至から言われたんですよ。だから、わたし、すぐに陶工のところに行って、ろくろを回し始めたの、土をこねて」
この反骨心こそ、春日さんの真骨頂だ。土をこねて形づくり、窯に入れて焼いていく。この一連の作業に、春日さんは身も心も鷲掴みにされた。
「だから、第2歌集の名前は『火中蓮』。蓮っていうのは、自分も火の中の茶碗のように、焼かれたいっていう思い。だって、火の中で焼き物が形を変えていくんです。それって思った通りのものが出てくるかどうか、わからない。歌と同じですよ」
一生懸命に土をこねていると、自分の頭をこねているようにも思えてくる。
