海外で教鞭に立つという夢

中部地方で生まれ育った木梨さんは、20歳の時に友達と遊びに行った海で、同じく友達と遊びに来ていた17歳の妻に出会った。連絡先を渡し、妻から電話をもらって1週間後、木梨さんから交際を申し込んだ。

やがて妻は短大へ進学。卒業した妻は、インフラ関連企業に就職し、総務部で社長秘書として働き始めたが、気遣いが多く心身の負担が重かったため、1年で退職。その後は、父親が経営する従業員20人程度の食品会社で働いていた。

一方、木梨さんは大学を卒業すると、公立中学校の教員として勤務。木梨さんが25歳、妻が23歳の時に結婚した。

結婚してしばらくすると、妻は木梨さんに、「実家の会社を継いでほしい」と言い始める。

教員の仕事を辞めたくなかった木梨さんは断ったが、妻は諦めない。何度断っても諦めないため、遂に、

「海外派遣の夢が叶ったら考える」

と約束してしまう。

そして28歳の時に、文部科学省の派遣教員として、在外教育施設である台北日本人学校に赴任することが決まる。木梨さんの夢が叶ったのだ。

木梨さんは妻とともに台湾に渡り、教員として働いた。

その間に妻は、26歳で長男を出産。

2年の赴任期間が終わり、帰国すると、妻は双子を出産。次男、三男のうち、次男が「軟骨無形成症」という障害があったため、妻は実家の仕事を辞め、育児に専念することに。

そして「実家の事業を継いでほしい」という妻の希望を叶えるために、木梨さんは帰国から1年後、31歳で義父の会社へ転職した。

障がいのある次男中心の家族

「私は、家事については『頼まれればやる』というスタンスだったと思います。一方で、子育てについては妻から不平を言われたことはなく、自然に関わってきました。特に次男、三男が双子で生まれてからは、双子育児に加えて次男に障がいがあったこともあり、夫婦2人で必死にやってきたという感覚です」

次男はしばしば呼吸発作を起こし、救急で運ばれた。7〜12歳の頃は、脊髄と延髄の狭窄開放手術を2回、長期入院を4回、骨延長術手術は1回受けた。

急行する緊急車両
写真=iStock.com/Martin Dimitrov
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「私たちは『地域の中で子育てを』にこだわり、次男を小学校の普通学級に入学させました。通学時や体育の授業、実習授業などの際は、学校から呼び出されるとすぐに妻が駆けつけ、次男の介助をしました。小6では、骨延長術を受けるために関西の子ども病院に入院、同時に病院に隣接する養護学校(現特別支援学校)へ編入し、妻は病院近くのアパートを借りて次男の介助と日頃の世話を続けました。次男が生まれてからの妻は、すべてを次男に捧げていたように思います」

それでも妻は明るく、家庭には笑いが絶えなかった。旅行が好きな妻は、自分で計画を立て、毎年家族でさまざまなところへ出かけた。

「毎週日曜は家族全員で買い物。長期休みは海外旅行。台湾、韓国、香港、上海、タイ、マレーシア、インドネシアなどを旅行しました。次男は車いすでしたが、私たちも若かったし、長男や三男が助けてくれました」

義父の会社を継いだ木梨さんは、次第に経営の中心を担うようになった。必然的に忙しくはなったが、夕飯はなるべく家族一緒に摂るように心がけた。

「子どもたちは3人とも、とても優しくて思いやりのある子どもに育ちました。夕飯の時は、3人が代わる代わるいろいろな話をしてくれました。私が子どもたちの話を肴に長い晩酌をしているせいで、最後は『片付かないからいい加減早く食べて!』と妻の雷がよく落ちました」