石田三成との「三献の茶」は本当か

「豊臣兄弟!」にも、まさに第18回から三成が登場する。ただし、このエピソードは、百数十年経った正徳6年(1716)に書かれた『武将感状記』に出てくる話で、史実である可能性は低いと思われる。だが、少年時代から気遣いができる人物だったから、このような話が伝えられることになったのではないだろうか。

三成は永禄3年(1560)に近江国坂田郡石田村(長浜市)に生まれたとされるので、小浜城が落城したときは、まだ数え14歳だった。

むろん、坂田郡石田村は浅井家の勢力下だったが、浅井父子が信長に反旗をひるがえして以降、この地域の在地勢力はどんどん織田方に、なかでも秀吉のもとにくだっていた。三成はこの地域の在地勢力だった石田正継の三男で、九州大学教授の中野等氏は『石田三成伝』(吉川弘文館)に次のように書く。〈たとえば元亀二年(一五七一)十月頃に、宮部継潤が秀吉に降ったとされており、石田正継もこの頃に秀吉に臣従したと考えられる〉。

そうだとすると、三成は秀吉と鷹狩で出会うまでもなく、その前から「秀吉麾下」だったのかもしれない。その後、20代前半までには、羽柴家中でも傑出した存在になっていたようで、越後(新潟県)の上杉家との交渉など重要な仕事をまかされ、天正13年(1585)に秀吉が関白になると、20代半ばにして従五位下治部少輔に叙任している。

絹本著色 石田三成像(模本)東京大学史料編纂所蔵
絹本著色 石田三成像(模本)東京大学史料編纂所蔵(写真=宇治主水/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家臣としても領主としても優秀だったが…

仕事の一つひとつで結果を出したのだろう。天正14年(1586)には堺奉行に抜擢されたが、これは秀吉の信頼の厚さを物語っている。翌年の九州征伐で、兵站や物資を補給するために、経済力がある堺の協力が必須で、三成はその交渉役を務めたのである。九州でも秀吉の代理として島津の領国に赴き、多くの交渉をこなした。

天正18年(1590)の小田原征伐後は、東北地方を統治するための実務をこなした。敵地に乗り込んでの仕事が多く、そこで結果を出したことについて、前出の中野氏は〈それなりの胆力を備えた剛直な人物〉だったからだと捉えている(前掲書)。

また、自身の領地や管轄する土地には、村掟をたびたび発したが、それについても中野氏は評価して、〈当時の大名のなかで、自己の所領内にこれほどまでにきめ細かく綿密な規定を発した例は他になく〉と記す(同)。秀吉の家臣としては、胆力の備わった能吏であり、そのうえ領主としての手腕もあったようなのだ。

ただし、羽柴秀長は小田原征伐の翌年に死去し、「豊臣兄弟!」もそこまでの話なので、三成のその後も描かれない。そして、その後の三成は、優秀な人物が陥りがちで、だれもが気をつけたほうがいい教訓をたくさん残している。