NHK大河「豊臣兄弟!」では、秀吉の家臣として活躍した石田三成が登場する。関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、かつては「神君に逆らった奸臣」と見なされてきた。実際はどうだったのだろうか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。

秀吉との出会いを“演出”した「三献の茶」

 天正2(1574)年頃の出来事だった――羽柴秀吉は鷹狩りに興じ、喉が乾いていた。そこで、ある寺に寄って茶を所望した。

 寺の小僧が茶碗に七、八分ほど注いだぬるめの茶を差し出すと、秀吉は「良い喉越しだ、もう一服」といった。 

 小僧は、今度は一杯目より少し熱くし、茶碗の半分にも満たない量で渡した。秀吉は飲み干し、さらに「もう一杯」を求めた。

今度は小さな茶碗に少しの量の茶を、かなり熱くして出した。秀吉はその気の利かせ方に感じ入り、住職に乞うて、小僧を自分の近侍としてもらい受けた。

 小僧の名は「佐吉」――のちに豊臣政権の奉行に登用される石田三成である。上記は三成と秀吉が出会った「三献の茶」のエピソードだ。

 この前年(天正元/1573年)、織田信長は浅井長政を滅ぼすと、浅井旧領の長浜(琵琶湖の湖北/滋賀県長浜市)を秀吉に与えた。領地が拡大したことによって独自の家臣団編成に迫られた秀吉は、優秀な人材の登用を進めた。そんなときに出会ったのが三成だったという。

『絵本太閤記 三献の茶』の秀吉と三成。国文学研究資料館/国書データベース

 ただし「三献の茶」の逸話は、後世の創作の可能性が高い。初出は正徳6(1716)年の『武将感状記』(戦国〜江戸時代初期の著名な武将たちの逸話集)で、その後は『絵本太閤記』(寛政9/1797年から刊行)を経て、『名将言行録』(安政元/1854年から刊行)に収録されるといった具合に、石田三成の人物像を語り継いできた。

 しょせんは作り話だが、「機転に富む実務家」「合理的で着実」という三成像を象徴する逸話ではある。

24歳にして羽柴家臣団の中枢

 実際の秀吉との邂逅がいつ、どのようなものだったかは、はっきりとわからない。通説では永禄3(1560)年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の生まれで、父は地元の土豪・石田正継まさつぐ。正継は北近江を治めていた浅井氏の配下だったようだが、元亀2(1571)年、浅井から織田に寝返った宮部継潤みやべけいじゅんと同じ時期に秀吉に臣従し、佐吉も父と共に仕えたのではないかと考えられている。

 歴史の表舞台に登場するのは、秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いの翌年の天正11(1583)年だった。石山本願寺の右筆ゆうひつ(書類を作成する文官)である宇野主人うのもんどの日記に「筑州家中出頭面々」(筑前守秀吉の側近)という一文があり、そこに「石田左吉(ここでは「左」となっている)」の名がある(中野等『石田三成伝』吉川弘文館/以下同)。