「筑州家中出頭面々」には他にも「羽柴小一郎(秀長)」「堀久太郎(秀政)」「浅野弥兵衛尉(長政)」「増田仁右衛門(長盛)」ら、豊臣政権の中枢に座る者たちの名が並ぶ。三成はこのとき24歳で、ひと際若い。若年にしてすでに家中で卓抜した存在だったことがうかがえる。

 また同年「正月廿三日」付け、差出人が「石田左吉」の書状も確認され、このときの花押が「三也みつなり」と読めるのが興味深い。実名はそもそも「三也」だったのだろうか。

毛利輝元が評した「当時肝心之人」

 三成は、秀吉が発給する文書の「副状そえじょう」(秀吉の意図を反復してより詳細に伝える文書)を担当することが多かった。つまり、秀吉の方針を正確に代弁する立場にあった。秀吉からの信頼が篤かったのは疑いようがない。

 年月が経つにつれ、この傾向はさらに強まる。例えば太閤検地における三成の役割などは端的な例だ。

 秀吉が三成と大谷吉継おおたによしつぐ宛てに発した「検地御掟条々」が残っている。これは田んぼ1反の基準面積を定めることに始まり、米の計測には京枡の使用を義務付け、また百姓からの進物を一切受け取ってはならないなど、検地の実施要綱を定めた条文である。いわば太閤検地の「規定」だ。それを現地で実施・徹底したのが三成と吉継だった。

 秀吉と大名との取次も、三成の仕事だった。一例を挙げると、毛利輝元が三成に相当気を使っていたことがわかる書状がある。

 輝元の家臣に、「貞宗」と呼ばれる脇差を所有している者がいた。その名刀を、どうやら秀吉が欲しがった。三成は秀吉の希望を輝元に伝えた。

 だが、家臣は渋った。そこで輝元は「彼仁(三成)、当時肝心之人(大事な人)」ゆえ、機嫌を損ねてはならないと釘を刺している。

 三成が窓口となって外交交渉を務めた大名には、薩摩の島津もいた。島津義久が秀吉に降伏(天正15/1587)した後、島津領内の検地は三成の主導によって行われているし、天正20(1592)年から始まった文禄の役(朝鮮出兵)では、島津に課す軍役や京に預ける人質の差配などに、三成が関わっている。

 三成は実直な男だったと考えられるが、こうした立場が、ともすると悪評につながった可能性も否定できない。逆にいえば、「嫌われ者」の役だったかもしれないと、個人的には思う。

秀次事件で真っ先に秀頼への忠誠を示す

 秀吉への「忠義の証し」を真っ先に示すのも三成だった。

 文禄4(1595)年6月、秀吉の甥、関白・秀次に、謀反の疑いが持ち上がった。秀吉は三成と増田長盛を派遣して秀次を問いただし、同年7月8日に関白職を剥奪した。

『太平記英勇伝 九十九 豊臣秀次』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

 突然の秀次失脚に、諸大名に動揺が走った。それを鎮めるため、三成がいち早く秀吉に起請文きしょうもん(誓約書)を提出した。内容は「(秀吉の実子)秀頼に忠誠を誓う」。秀次が切腹したのはその直後の7月15日である。

 三成が秀頼を盛り立てると約した起請文の提出が、秀次の死を促したと見ることもできる。実際この後、家康と前田利家、宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景らの有力大名も起請文に署名している。