また、京で何が起きているのかを正確に把握できない地方の大名、例えば伊達家などは、家臣が三成に書状を送って問い合わせている。それに対して三成は、

「関白殿(秀次)は逆心が露わとなったので切腹しました。すべて問題なく片付きましたが、上洛される折りに詳細をお話します」

 と、平然と伝えている。もはや強権を発動する辣腕政治家の権勢さえ、漂わせている。

 慶長3(1598)年8月、秀吉堕つ。死期の迫った秀吉を見て、三成は起請文通り秀頼への政権移譲を進めようと、7月には大坂城の修築を開始していた。秀頼の居城としてふさわしい城とするためだった。

 そして豊臣政権は、石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以の「五奉行」によって運営されていく。

 しかし、この政権運営は分裂し、2年後の関ヶ原の戦いで西軍に属したのは三成と増田・長束の3人で、浅野と前田が家康の東軍に与した。三成は敗れ、41歳で斬首となった。

豊臣兄弟にも劣らない「石田兄弟」

 三成には兄がいた。名を石田正澄まさずみという。この兄弟は、豊臣兄弟に勝るとも劣らない強い絆で結ばれ、正澄は生涯、弟を支えた。

 堺奉行をはじめ、秀吉・秀頼2代にわたって豊臣の奏者番(大名や公家とのあいだの取次役)を務めた文官であり、万葉集に堪能で和歌を詠む風流人だったという。やはり石田家は「武」より「文」の家系なのだろう。

 優秀な能吏のうり(官僚)であり、堺の交易の管理、公事(裁判)なども手際よく処理したという。弟の石高には見劣りするものの、北近江や河内に2万5000石を領していた。

 関ヶ原の戦いでは、弟の居城である佐和山城(滋賀県長浜市)を守備した。三成が敗走すると父・正継と共に籠城したが、城内に東軍への内通者が出て、たった1日で陥落した。

石田三成の居城・佐和山城(写真=立花左近/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons) 

 正継と正澄、正澄の子・朝成ともなり、また三成の正室・皎月院こうげついんは自害して果てた(皎月院は生存したとの説もあるが、詳細は不明)。

 だが三成の長男・次男・三男の3人は、からくも生き延びた。長男・重家しげいえは出家して天寿をまっとうし、次男・重成しげなりは大坂城から津軽へ逃れたのち弘前藩の家老となり、三男・佐吉さきちもまた高野山に出家して生きながらえた。

 正澄は石田の血の存続に貢献した。三成にとって得難い存在だったといえよう。

低から高へ、三成評の変遷

 さて、「神君」家康に弓引いた三成は死後、賊軍として貶められた。実際、江戸時代の三成評は「奸臣」(邪悪な家臣)である。徳川の天下の正当性を主張するには、三成は「悪」でなければならなかったのだ。

 例えば正徳の治を主導した儒学者の新井白石(1657〜1725)は『藩翰譜はんかんふ』で、福島正則や加藤清正らの事績を紹介し、対立関係にあった三成を奸臣としている。