女・子供三十数人の斬首を指揮

一例を挙げておこう。秀吉の甥で関白職を継いだ秀次が、秀吉とのあいだに軋轢が生じた挙句、文禄4年(1595)7月15日に切腹した。そして8月2日には、秀次の子どもたちと本妻、別妻、妾や女中ら三十数人が、京都市中を引き回されたのちに、三条河原で衆人環視のもと斬首された。

この、いわゆる秀次事件に際し、切腹前の秀次を尋問したのも、秀次没後、残虐をきわめた処刑現場で陣頭指揮をしたのも三成だった。そして、仕事をしっかりこなしたことが評価され、豊臣経験内で実務派としての位置づけをさらに強固にしていった。

秀吉の命令に忠実に従っただけかもしれない。だが、こうした行為に関して、命令に忠実に淡々とこなせる人間は、能力は高いのだろうが、ある種の危うさを感じざるをえない。ちなみに、これを機に福島正則をはじめとする武功派との対立も激しくなっていく。

そして、対立が激化した末に起きたのが、秀吉没後の慶長4年(1599)閏3月4日に起きた三成襲撃事件だった。秀吉恩顧の有力武将、加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の7人が三成を襲ったのだ。

このときは徳川家康の執り成しで、三成が政務を退いて佐和山城(滋賀県彦根市)に引退するということで決着を見ているが、もちろん、三成には襲われる理由があった。

人の心の機微がわからない

その理由について、国際日本文化センター名誉教授の笠谷和比古氏は、朝鮮半島から捕虜として連行された朱子学者、姜沆の『看羊録』に書かれた、2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の際の逸話を重視する(『論争 関ヶ原合戦』新潮選書)。

『看羊録』の内容は、おおむね以下のようなものだ。朝鮮半島で戦う武将たちが、明と朝鮮の軍を追撃しなかったことを、軍目付の福原長堯が三成経由で秀吉に訴えると、秀吉は激怒し、加藤清正、蜂須賀家政、藤堂高虎、黒田長政らが譴責され、一部の武将は領地まで奪われて福原への恩賞にあてられた。そこで清正らは帰国後、福原を討とうとしたが、三成が妹婿の福原を擁護したので、武将たちは三成を襲撃した――。

諸将が明と朝鮮の軍を追撃しなかったのは、5万の大軍に包囲された蔚山城の籠城戦後のこと。清正や幸長は飢餓地獄を味わい、家政や長政の救援のおかげで九死に一生を得た。そんな状況で、追撃など到底できなかっただろう。ところが福原長堯は終始、積極的な戦いを要求する秀吉に忠実で、三成も同じく妹婿の福原と一緒になって、現場で生死をさまよった武将たちを糾弾した。

武功派の武将たちの恨みを買い、彼らとのあいだに埋めがたい溝が生まれるのも当然だろう。

三成は切れ者ではあったのだろうが、どうやら人の心の機微がわからない。あるいは機微を理解できない。すると生まれるのは対立である。この対立こそ豊臣家が滅びる大きな要因になった。

関ヶ原合戦が勃発したのは、その翌年のことだった。

関ヶ原古戦場
関ヶ原古戦場(写真=Drivephotographer/CC-Zero/Wikimedia Commons
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