明治時代初期、東京では競馬が流行していた。競馬実況アナウンサーの矢野吉彦さんは「軍事力を強化したい陸軍主導のもと、東京の中心部で次々と競馬が開催された。欧化政策の一環として競馬を推進した明治天皇はたびたび競馬場に行幸され、天覧競馬が行われた」という――。

※本稿は、矢野吉彦『競馬史発掘』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

砂の上を走る競走馬たち
写真=iStock.com/Deejpilot
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靖国神社で開催された洋式競馬

江戸時代末期に在留外国人が横浜に持ち込んだ洋式競馬は、根岸競馬場の開場とともに今の競馬につながる本格的な開催へと“進化”した。そして、時代が明治に変わると全国各地で日本人が主導する近代競馬も始まった。

1870年10月7日(明治3年9月23日)、東京・九段の招魂社大祭に際し、兵部省(陸・海軍の前身)が主導して、境内に設けられた楕円形の馬場で競馬が開催された。これが日本人主導による洋式競馬の始まりとなった。

東京の招魂社(今の靖国神社)は、戊辰戦争など、倒幕の戦いで命を落とした人々の霊を慰めるため、明治天皇の命によって創建された。日本には古くから京都・上賀茂神社の“競馬”のような、祭礼に伴って奉納する直線競馬があり、招魂社大祭の競馬もそれらにならって行われたと思われる。

とはいえ、これを陸軍が主導し、楕円形の馬場で争う洋式競馬にしたのには、新時代の象徴にしようという意図が込められていたに違いない。考えてみれば、当時は招魂社そのものが、前年(1869年)にできたばかりの新しい施設だった。

なお、靖国神社の年史などには1871(明治4)年春の例大祭で競馬が催されたと記されている。しかし、1870(明治3)年の競馬に先立つ兵部省の公示やその様子を描いた昇斎一景の浮世絵『東京於招魂社境馬図』が遺っていることから、招魂社競馬が始まったのは同年と断定していい。

月岡芳年『東京招魂社内外人競馬図』
月岡芳年『東京招魂社内外人競馬図』(1871年)(画像=馬の博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

陸軍が競馬開催を後押ししたワケ

招魂社競馬場は、今の靖国神社第一鳥居と第二鳥居の間に作られた。東西に長いが、南北の“幅”は50メートルほどしかない。東京競馬場芝コースの最大幅が41メートルなので、それをちょっと広げたほどの幅に周回コースを収めたことになる。騎手には相当な技量が要求されたはず。

1870(明治3)年の競馬では、ここで函館大経が見事な騎乗ぶりを披露し、広くその名をとどろかせるきっかけを作った。ついでに言うと、一部の資料にこれが天覧競馬だったとあるのは間違い。明治天皇が初めて同社に行幸したのは、1874(明治7)年1月のことだ。

車がない時代の“戦”には馬が欠かせなかった。乗馬術は武士に求められた素養の1つ。明治維新後、世界を相手にすることになった“日本軍”にとっても、その技能の向上は喫緊の課題と位置づけられた。陸軍が競馬を主導したのはそのためだ。

また、当時は野球やサッカーが日本に持ち込まれる前。今の柔道(嘉納治五郎が創始した講道館柔道)もまだ生まれていなかった。招魂社で開催される競馬は、庶民にとって相撲や撃剣(=剣術)と並ぶ人気の“見るイベント”となった。

もちろん、軍事力強化に直結する馬と馬具の性能向上も求められた。そこで政府は三田育種場を開設、農産物や農機具などとともにそれらの改良に乗り出す。その一環として場内に馬場を設けて競馬を開催した。初回競馬は1877(明治10)年9月30日、同育種場の開場式に伴い、内務省農局の主催で行われた。