奉納から国家的行事へ
三田育種場競馬場があったのは、現在の港区芝3丁目や5丁目周辺、ホテル・ザ・セレスティン東京芝や日本電気本社ビルなどがある一帯。江戸時代は薩摩藩邸だった場所で、1874(明治7)年以降、その跡地がいわゆる農業試験場として利用されていた。
今、日本電気本社ビル北側には「薩摩屋敷跡」の碑があり、セレスティンの建物脇には「芝さつまの道」という歴史を伝える空間がしつらえられている。しかし、明治時代にそこで競馬が行われていたことを示すものは何もなかった。
九段、三田の次は新宿・戸山。1879(明治12)年8月20日、来日中のグラント元アメリカ合衆国大統領を歓待するため、陸軍戸山学校の敷地に競馬場を新設して競馬が開催された。その場所は新宿区大久保3丁目と戸山3丁目にまたがっている。
東は都立戸山高校、西は早稲田大学西早稲田キャンパスと都立戸山公園を取り込むほどの広大な敷地。『日本競馬史第二巻』には東西に長い楕円形馬場の横幅が731間=約1300メートルと書かれているが、それだと東京競馬場より大きくなってしまう。実際には、馬場1周がそのくらいの距離だったようだ。
この競馬場は今の迎賓館に匹敵するような施設だった。当日は明治天皇が行幸、各国公使や外国艦隊司令官、日本政府要人らも多数観戦に訪れた。国賓歓待のための競馬なら当然のことだろう。後にも先にも、日本の競馬がこれほどの国家的行事になったことはない。
上流階級が集った日本初の“競馬社交クラブ”
グラント氏歓待競馬の開催をきっかけに、同年中に日本人の手による初の競馬主催団体「共同競馬会社」が設立された。会社とはいえ、実体は“カンパニー”ではなく“クラブ”で、同社の幹事には松方正義(後の内閣総理大臣)、蜂須賀茂韶(後の東京府知事、文部大臣)、副幹事には田辺良顕が名を連ねた。
田辺は高知競馬黎明期の話に出てくる人物。当時は陸軍在籍中で、後に高知県令(今の県知事)となり高知初の洋式競馬開催を主導した。共同競馬会社の役員には、田辺のほか、1870年の招魂社競馬以降の日本競馬を取り仕切るようになった陸軍の関係者が多く含まれている。
ところで、本稿執筆に備えて資料を集めていた際、北海道立文書館所蔵の『開拓使文書』の中に、「競馬会社規則」という小冊子が挟み込まれているのを見つけた。
そこに書かれていたのは「競馬共同会社設立大旨」(最後に『明治十二年六月』と記されている)や、「本会ハ東京ニ於テ開設スル所ニシテ……」という第一条で始まる26カ条の「共同競馬会社規則」と、全18カ条の「競馬会社役員ノ心得」。さらに「当社ニ控へ置ク帳簿ノ雛形」として、今で言う競走馬登録名簿の見本も掲載されていた。
冒頭の設立大旨を誰が書いたか、規則などを誰が定めたかは不明だが、この小冊子は、グラント氏歓待競馬の開催を前に日本人有志たちが共同運営による競馬を始めようとしていた証と言える。ただし、『日本競馬史』にこの小冊子に関する記述はない。
競馬史研究家の田島芳郎さんにその理由を伺ったところ、「同書が編さんされた時点ではそれが見つかっていなかったからだろう」とのこと。ひょっとしたらこの私、歴史的発見をしてしまったのかも?

