上野の競馬場に「東京中の市民が集まった」

「共同競馬会社」主催の初回戸山競馬は1879(明治12)年11月30日に行われた。翌1880(明治13)年、三田育種場競馬の主催者として「興農競馬会社」が設立され、横浜・根岸競馬の主催者「ニッポン・レース・クラブ」には日本人会員が参入する。日本近代競馬の形がいよいよ整い始めた。

このうち戸山の競馬は、当時としては市街地から離れた交通不便なところにあったため、客足が伸びなかった。そこで会社は有数の繁華街・上野に競馬場を移転させた。馬場ができたのは不忍池の周り。今の上野動物園内、フラミンゴやペンギンがいるあたりにスタンドが設けられた。

不忍池競馬場の初開催は1884(明治17)年11月1~3日。その頃、すでに上野には埼玉・大宮に至る鉄道のターミナル駅があった。また、横浜に通じる鉄道が発着する新橋を起点として、上野、浅草、浅草橋をヘアピン形に走る馬車鉄道が開業していた。

楊洲周延『野不忍大競馬』
楊洲周延『野不忍大競馬』(1884年)(画像=日本中央競馬会 編集・発行『日本競馬史』第2巻/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

戸山に比べてアクセスは格段に向上。初日の様子を伝える新聞によれば、「東京中の市民が残らずここに集まったかと思うほどの賑わい」だったという。

もちろんこの当時、馬券は発売されていない。それでも一般市民が大挙して見物に訪れたのは、洋式競馬がまだまだ珍しいもので、何より明治天皇を筆頭に多くの要人が参集するビッグイベントだったからに違いない。

鶴岡八幡宮もレースの舞台に

ここで、当時の“流れ”を受けて神奈川にできた2つの競馬場もご紹介しておく。1つは1890(明治23)年3月9日に開場式と開場記念競馬を挙行した横浜・平沼(岡野新田)の競馬場だ。この馬場は東京や根岸の競馬に出走させる馬を調教するための施設として、有志たちが開設した。

矢野吉彦『競馬史発掘』(星海社新書)
矢野吉彦『競馬史発掘』(星海社新書)

場所は横浜駅西口から東海道線、相鉄線の線路に沿って保土ヶ谷方向に歩き、新横浜通りを越えた岡野町1丁目あたり。そこにあった貯木用の池の周りに馬場を作って調教場にした。今で言えば私設のトレーニングセンターだ。

当日の様子を伝える新聞記事には神奈川県知事や横浜の豪商、紳士たちが多数来場したと記されている。ただ、当地の競馬は長続きしなかったようだ。

もう1つは鎌倉・鶴岡八幡宮競馬場。1894(明治27)年4月の新聞に「鎌倉大競馬」と銘打ち、境内蓮池の周囲で競馬を開催するという広告が載っていた。

八幡宮に問い合わせたところ、明治中頃からしばらくの間、流鏑馬とは別の競馬開催が行われていたことを示す記録を見つけていただいた。また、翌1895(明治28)年11月の競馬には、オーストラリアから輸入された競走馬が、根岸の競馬を前に鎌倉競馬に出場するとの新聞記事もあった。

鶴岡八幡宮競馬も、非公式ながら“馬券黙許”以前の日本近代競馬に確かな足跡を残していた。

【関連記事】
石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」
「10個のリンゴを3人で公平に分けるには?」有名な思考クイズをひろゆきが解いたら…答えが斬新すぎた
なぜ伝説の動物写真家はヒグマに命を奪われたのか…星野道夫さんの悲劇を呼んだ「餌付けされたクマ」の怖ろしさ
私には明瞭にモノを言うが、他人には曖昧な言葉を使う…昭和天皇が「総理大臣にしてはならぬ」と語った政治家【2025年9月BEST】
サルでもハゲネズミでもない…外見にコンプレックスを抱える秀吉が信長に付けられた「もう一つの呼び名」